誰に殺されたのか(樺美智子さん ①) | akm48

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僕らが子供の頃、今上天皇と美智子皇后が1959年(昭和34年)に結婚された。
ちょうどテレビが家庭に普及し始めた頃で、婚礼の儀やパレードを見ようとテレビを購入した家庭が多かった。
長嶋茂雄が巨人で活躍し始めたのも大きかったな。
その年の9月には伊勢湾台風である。
死者5041人、被害家屋57万戸と明治以後最大の台風被害であった。
学校から帰ってテレビのスイッチをひねると伊勢湾台風の被害の状況がいつも映っていた。

翌年(昭和35年)は安保闘争である。
毎日、改定安保条約批准阻止の全学連が国会に突入する映像が流れた。




日本で最大規模のデモであったな。
なぜ彼らは騒いだのか。本当に安保条約を読んで中身を理解していたのか。
当時、東大の安保闘争のリーダーは西部邁であった。
その西部がその後、どう言っていたか。


60年安保闘争は、岸信介内閣が日米安全保障条約の改定に取り組んだときに始まった。私は当時、毎日デモに参加し、「安保反対! 岸首相は退陣せよ」と叫んでいた。
安全保障条約は、吉田茂内閣が取り決め、岸内閣がその条約を改正し、その内容は日本にとって改善されていた。だが、私は吉田安保も改定された岸安保も条文を読んだことがなく、ただ当時のファッションで安保反対を唱えていただけだった。「岸信介はA級戦犯容疑者であるから、きっと日本をまた戦争に巻き込むための安保改定に違いない」と思っていたのである。


お祭り気分で騒いでいたのである。
しかし、仕掛けたものはいるのである。
wikipediaにも書かれているように、
日米安全保障条約(安保条約)に反対する国会議員、労働者や学生、市民および批准そのものに反対する左翼や新左翼の運動家が参加した反政府、反米運動とそれに伴う大規模デモ運動である。


そんなデモの中、1人の女子学生が亡くなった。
東大生樺美智子さんである。
樺美智子さんの死因は政府の公式発表では「(デモ隊の)人ナダレによる圧死」ということであった。
要するに「将棋倒し」が起きて、樺美智子さんがその下敷きになって圧死したということであるな。
僕らも普通の人もそう思っていると言うか、思わされている。

父親の、当時中央大学教授樺俊雄は、こう言っている。
「娘は殺されたのです。警察の発表では、娘の死因は圧死ということになっています。しかし、解剖に立ち会った知人の話によると、解剖の結果からみて、娘はまず警官に頭を殴られ、頭をかばおうとした手を棍棒でたたかれ、さらに首を腕でしめつけられ窒息状態で倒れるところをひざで蹴上られたものと判断されます


樺美智子さんの司法解剖は亡くなった翌日の6月16日朝から慶応大学法医学教室で中舘久平教授執刀の下で行われた。
この時に解剖に立ち会ったのは4人(3人?)と言われている。
・東京地検特捜部検事難波治(立ち会っていない?)
・東京大学法医学上野正吉教授
・代々木病院副院長中田友也
・参議院議員(社会党)で医師坂元昭
4者はいずれも窒息死という点では共通している。
しかし窒息の原因については、検察と中館教授(執刀医)は人雪崩による胸腹部の圧迫、中田・坂本・丸屋氏は扼死で判断が分かれた。
扼死とは腕や手で頸部を強く圧迫されて死ぬことである。

父親の樺俊雄教授の言うような頭部外傷・脳への損傷はなかった。
警察に、首を腕でしめつけられ窒息状態で倒れるところをひざで蹴上られたものと言うが、男子学生で暴れ回っていたと言うなら分かるが女子大生にそこまでするとは常識的に考えられない。
父親として感情的になっているのは分かるが・・・・。

不思議なことに樺美智子さんが暴行を受けた現場を誰も見ていないのである。目撃者は1人もいない。
これは、僕も相当調べた。
あんなに多くの、「将棋倒し」が起きるような群衆の中で目撃者がいないのである。
普通は、このようなのをプロの手口と言うんだろうな。


恐らくは偶然の死ではなかったであろう。
なぜ、彼女は殺されねばならなかったのか?


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この猫、前世はモモンガーだったのだあ〜