石馬寺・てんびんの里 | akm48

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石馬寺・てんびんの里



バス停から石馬寺に向かう道は里山の道。美しくのんびりした農村風景。
気持ちがなごむ。
「石馬寺はこちらの方ですね?」
「そうですよ。400段以上の階段があります。」
答えてくれた農作業をしていたおじいさんとおばあさんの顔が実にいい。
人のよい、なごやかな笑みをたたえた、昔からの日本人の顔だ。
最近はこのような顔になかなかあえなくなったなあ。
それはそうと400段以上の階段? こりゃあ大変だわ。
参道は両側の高い木々がトンネルをつくり石を敷いた階段は高さも低く快適だった。
100段も登っただろうか、右に折れてすぐに石馬寺に着いた。
400段?この辺の人は1段を4段と数えるのだろうか?
昔の人や、田舎の人は案外大げさだからな。
石馬寺の住職さんが迎えてくれる。30代位の体格のよい声のよく通る住職さんだ。
寺内の部屋に案内される。部屋の前にはなかなか良い石庭がある。
石庭の向こうには宝物館が建っていてこれがコンクリート作りだ。やはり興がさめる。
石馬寺の煎茶と和菓子を出してくれるが住職が一人だからなかなか大変のようだ。
「この和菓子は参道をイメージして私が企画しました。下の餡が参道ですね。それを緑の
木々が覆っています。」 なるほどなるほど、これ位は小学生も考えますな。
「ようこそ、福井からお参りいただきありがとうございます。私は大学を卒業して天竜寺
で修行をし去年この寺の住職として赴任しました。」
「寺の由緒なんかお話していただけませんか。」
「それは後で宝物館でお話します。」
かるーくいなされましたな。

すばらしい宝物館



しばし、休憩の後で宝物館に向かう。
途中で住職さん「この寺の木は福井の木こりさんに手入れをして貰っています。織田の
人ですね。つい先日も枝を切ってもらいました。また、僕に福井の友達がいます。」
おっ、福井に親しみを込めているね。それにしても木こり(樵)なんて久しぶりに聞いた
言葉だな。今の若い人には通じるのかな?第一、本人たちが自分は木こりだと思っている
のかな? 庭師?園芸家? 僕だったら森の達人、森の神の使い かな。

宝物館に入いってからも住職さんの福井の話が続いていた。
「福井のどちらですか?」「福井市です。高校の同級生です。」
「どちらの高校ですか?」「藤島高校です。」
「藤島高校ですか。すごいですね。」
この住職さんは藤島高校にも「落ちこぼれ」がいることを知らないらしい。
我々は何を隠そう「落ちこぼれ」だけを集めた仲間なんだぞ。
「私の友達は藤島高校を落ちまして北陸高校の特進科へ行ったそうです。福井で量販店で
働いています。」「福井の言葉は面白いですね。その友達も土のことをベトと言ったり、
抑揚も変わっていますね。聞いただけですぐ分かります。」
ほっといてくれ。僕らは福井弁が標準語だと思っているんだから。
朝倉義景が織田信長を破るか、柴田勝家が羽柴秀吉を破っていたら一乗谷か北の庄に
幕府が開かれて福井が首都となり今頃は福井弁が標準語になっていたんだぞ。
一日中、テレビから福井弁が流れているんだぞ。演歌もポップスもロックもぜーんぶが
福井弁なんだぞ。

宝物館はコンクリート作りだが中はすごい。
仏像はすべて重要文化財だが以前は国宝だったらしい。
昔、カメラのCMにありましたな。
坊さんが「本当やったら、うちの仏さん国宝なんやけどなあ」って言ってるの。
今の人には通じないだろうけど、面白いCMやった。
ここの仏さまは本当に国宝級と思いました。
像が大きいのです。全て2メータ以上はあるでしょう。



今、滋賀県では仏像が盗まれているんですね。
これだけの仏像を保管しようとするとコンクリート作りもしようがないのかな。

パニクリましたがな。知っていた?



宝物殿から本堂へ移る。このあたりから僕はパニック状態になってしまった。
昼食は12:00に予約をしてあった。
既に11:30に近くなっている。バスは11:46発でそれに乗れないと12:46になってしまう。
バス停まで距離もあるし絶対に間に合わない。
納屋孫さんに電話をしなければならない。エーッと電話番号は?
僕は大抵のメモは字を書くのが面倒だから携帯電話の写真に撮っておく。これは便利で
お勧めですぞ。
無い!! たしか写真に撮ったと思ったのだが無い。
保存したフォルダーが間違ったようだけど、今それを探している余裕が無い。
誰かピクニックのスケジュールをプリントした人がいたっけ。
中野さんが確か持っていたはず。
「おーい、中野さん!ピクニックのスケジュールをプリントしたの見せて貰えんか?」
プリントしたものを見せてもらったが納屋孫さんの電話番号はHpを開くことによって
分かるようになっている。ここでは無理でんがな。
こちらではパニクッてるのに住職さんは面白おかしく説明をしている。
みんなは、それを聞いていてパニクッてる僕には誰も気づかない。
もう11:40になっている。みんなチビタイもんじゃのお・・・・・・・・・
そのうち、あることに気づいた。2、3日前に納屋孫さんから携帯に人数の確認の電話が
入っていたぞ。そやそやこれやこれや。
納屋孫さんに電話を入れる。
「今、石馬寺にいるのですがここで時間を食ってしまい11:46のバスに乗れないん
ですよ。それで、次のバスになると12:46になってしまうんです。それで食事を
1時間ほど遅らせてください。」
電話の向こうで何か話をしているようす。
「はい、わかりました。石馬寺におられるんですね。そしたら、いつでもいいです
から石馬寺を出る時にお電話を下さい。店のマイクロバスがお迎えに上がります。」
ひゃーッ! 良かった。助かった。
店に入ったらビールでも何でもドヒャーッと飲んだるがな。

納屋孫さんとの話が終わった時には本堂には僕一人が残されていた。
本堂ではどんな説明やったんやろ。何にも分からんかったなあ。
まあ、問題が解決しただけでも良かった。


雨宮龍神社へ続く石段はキツーッ



納屋孫さんの「いつでもいいですから」の言葉を得たからには悔いを残すことなく見て回
ろうと欲を出した。
住職に雨宮龍神社は直ぐですね。
「はい、来られた時の石段の倍以上はありますけど・・・・・」
「??・・・・・・・・」
ひょっとすると農作業をしていたおじいさんとおばあさんが400段以上あると言ったのは
雨宮龍神社まで登ればと言うことだったか?
まあ、ここに来れる機会はもうないだろう。この際、登ろうと言う事になった。
途中、六所神社に寄ったが大きな苔むした石があって霊威を感じた。
雨宮龍神社は名前でわかるように雨乞いを願う神社だそうだ。
細い、ほぼ一直線の石段が左右の木々を分けて続いている。
ここで、足に自信の無い人や興味の無い3、4人は下に降りた。

石段を登り始めてみると生易しいものではないと感じた。
石馬寺までの石段は高さも低く美しいとさえ感じるものだったが雨宮龍神社へ続く石段は
高さも段々に高くなり勾配もきつくなってくる。
元気印の岡本さんや中野さんは苦もなくスイスイと登ってゆく。身の軽い佐々木オカンも。
いつも訓練している高嶋君も軽い。
健闘しているのは痛風持ちの辻君、三村さんもがんばっているぞ。
僕?ヘトヘト。少し登っては休み、腰を下ろしてしばらくして「さあ」と立ち上がる。
どうも僕が最後らしい。後方から橋本さん、渡辺さん、塚本さんの声がしていたけど
もう聞こえてこない。
「やった! あいつらには勝った。」
しばらくすると登り切った人の声が聞こえてきた。
「大きい石があるわ!どっちへ行ったらいいんやろ。わあッー下の方がきれいに見えるわ。」
元気な福井弁である。
やっと、よれよれで登り切った。
なるほど大きな石がある。蘇我馬子の墓(石舞台)を思った。
やはり、墓だろうか?土を被せれば円墳だろう。
それとも雨乞いの神社だからこの石の上で火を焚いたのだろうか?
どちらにしても宗教上のモニュメントであることには変わりない。
この辺から下を見ると里が見える。琵琶湖が見える。

まてよ?
里の人がこの神社に集まるのは雨乞いのためだ。
と言うことは真夏の炎天下だ。
炎天下にこの石段を登るのは大変だ。喉も渇く。水も飲みたいだろう。
神社の近くでは雨乞いのために火を焚いただろう。暑いなあ。水も飲みたいだろう。
これだけして雨が降ればよいが降らなかったら随分無駄だなあ。
下を見れば琵琶湖が見える。
どうして、琵琶湖から水を引くことを考えなかったのだろう?
地権者の問題や村の争いなんかがあったのだろうなあ。
昔から人間は合理的には行動できないことになっている。

雨宮龍神社の彫り物はすごかった



雨宮龍神社に行ってみるとすごい神社だ。
彫り物がすごい。今立の大瀧神社のようなみごとな彫りだ。
これだけシンドイ石段を登って村の衆が集まって雨乞いをし、神社をつくったなんて
昔の人はすごいもんだな。今の我々には考えられない共同幻想を持っていたのだろう。

神社から大きな石のところに戻り記念撮影をしようとしていると塚本さん、渡辺さん、
橋本さんが登って来た。
「おお!いつもひざが痛いとか腰が痛いとか言ってるアンタらようあがって来られたのお」
「ほやって、くたくたや。まるで天空に登って来た感じやった。」
「天空に登って来た?なんてしゃれた言葉を使うんや。」
「今、ここで記念写真を写すんや。神社まで直ぐやで早よ行ってきね。」

石段を降りるのはきつかった。登るより何倍もきつい。ひざがガクガク。
この石段は雨模様の時は本当に怖いだろうな。落ち葉が岩の上に乗っていて雨の日には
すべるだろう。怖いなー怖いなー。
石馬寺の屋根が見えたときにはホッとした。
納屋孫さんに電話をする。「今から石馬寺を出ます。」
「分かりました。下で待っていてください。」
どうにか降り切った。金毘羅さんよりきつかったぞ。

下で待っていると納屋孫さんのマイクロバスが迎えに来てくれた。
早津君一人がバス停で待っているとのことで迎えに行くと道の真ん中で柔軟体操を
していた。
納屋孫さんへはクネクネした細い道を何度も曲がって行く。
これじゃ我々だけで行ったらとても辿りつけない。
納屋孫さんありがとう。

納屋孫さんの料理はうまかった



納屋孫さんに着くと2階に案内された。
「エーーまた階段をのぼるのおー。もう階段は飽きたわ。」
席に着くなり「ビールッ、ビールッ、ビールッ。」
石段を昇り降りして疲労がたまったために体がビールを要求していた。
アルコールを全く飲めない人でもコップ半分のビールは飲んでいた。
適当な疲労感のある時のアルコールは本当に旨い。
納屋孫さんはこの辺では有名な料理屋さんらしい。
自慢の料理「鯉の筒煮」は他所では食べれない。
「旨いのお」、「何て美味しいの」、「これおいしいざ」・・・・・・・・・
「これお持ち帰りできんのか?」
「予約の分しかないんですよ。」
ああ、こんなことなら料理のレベルを出発前に1つ下げるんやなかったなあ。すまん。

僕の座った席のグループとは別の席のグループではかなり盛り上がっている。
三村さんがかなりハイテンションになっている。
「オーイ、三村さんにもっと飲ませ、飲ませ。」
「ほやほや、三村さんの半生記の続きを話してもらわなあかんでの。」
「埼玉編で中断しているでの。」
他には高嶋オカンが餌食になって盛り上がっていたらしい。
「どんな馴れ初めやったの・・・・・」
オイオイ、こんなの禁句やないの。
約40年前の出会いなんて本人から言い出さなかったら反則やぞ。
そんなこんなで納屋孫さんでの昼食は美味しく楽しいものだった。

外村繁さんにはお世話になりました



食事が済んで、さて街歩きだ。
滋賀県は戦災を受けていないので古い街並みや文化財が多く残っている。
もともと歴史が古くで戦災を受けていないのだから魅力的な土地・風土である。
納屋孫さんのすぐ近くにある福応寺の伽藍も立派だった。
結神社も福井では見ることのできない大きな境内ですばらしかった。
このように名も知られていない文化財でも見応えがある。ふところの深い街である。
納屋孫さんの周辺を歩くだけで杉焼きの大きな塀を持ったお屋敷が並んでいる。
下衆な僕なんぞは、維持費が大変だろうな?固定資産税はどのくらいかな?
後継者はいるんだろうか?とすぐに考えてしまう。

五個荘の近江商人の街並みに入ってゆく。
街の中心にある弘誓寺は昔来たときは工事中だったがみごとに立派になり寺の周囲にめぐらしてある堀には大きな鯉がゆったり泳いでいる。
納屋孫さんの「鯉の筒煮」はまさか?・・・・ 叱られちゃうな。

外村繁さんの屋敷にでる。
外村繁さんには高校時代によくお世話になった。
彼の私小説「澪標」は当時の悪友とこっそり読んだ。
その悪友の名前は。いやよそう秘密にしておこう。藤島高校の図書館にあったのだ。
「外村さんの作品「みおつくし」には若い頃よく世話になってね。」と言うと「NHKの朝ドラにあったがの」と昔の娘さんは言うのだが・・・・・ あれはちゃう。
実は外村さんの幼年時からの「性欲史」を赤裸々に書いたものであった。
僕らの時代には「平凡パンチ」がやっと出たかどうかの時代でまだ牧歌的であった。
伊藤整訳「チャタレー夫人の恋人」が発禁になると、おもむろに原典のその部分だけを英和辞典を引いてみたり・・・・。
 だけど英語の力は付かなかったなあ。
鎌倉時代の説話集「古事談」には卑猥な説話が多く語られていて特に道鏡と孝謙天皇の話が卑猥でこっそり古語辞典を引いてみたり・・・・。
 だけど古典の力は付かなかったなあ。
どんどんと勉強からは遅れていったなあ。
あれから歯車が噛み合わなくなっていったなあ。

あれ! 私は誰? ここはどこ? 何を話しているの?


雛壇が片付けられていて武者人形が



近江商人の家々は雛壇が片付けられていて武者人形が飾られている。
3月にはみごとな雛壇が飾られているそうだ。
武者人形もそうだが商人が贅を尽くすことで職人が育ち産地ができてくる。
近江は人形づくりが伝統工芸として残っているようだ。


庭も大きな寺や有名な旅館の庭にもひけを取らない。
小耳に入った案内人の話だと明治のある時代には14軒の商人の納める税金が滋賀県全体の納税額の4割以上を占めたとか。
現在も伊藤忠商事、丸紅、西川産業、西武鉄道、日本生命、商船三井などそうそうたる
会社が近江商人の創業であればうなずける話である。

近江商人の理念を語る場合によく「三方よし」ということが言われる。
    売り手よし ・ 買い手よし ・ 世間よし
詳しくは各自が調べてね。

今回の「石馬寺・てんびんの里」のピクニックも概ね好評であった。
また、秋にはみなさん参加してください。

追伸
  外村繁さんの屋敷で見た家族写真の娘さんたちはトビっきりの美人であった。
  娘さんたちも父親の性欲史「澪標」を読んだのだろうか?