岡山県井原市高屋町谷高草に石鎚社がある。
ここの事は井原市史民俗編794頁に以下のように記されている。
「7 高屋町谷高草 明治三十四年頃、創立されたようでお注連を張った門柱には、明治
三十四年一月の銘がみえる。元小田原氏が祭り、後年この屋敷に移り住んだ高木氏
が中心で祭った石鎚社である。玉垣に彫られた寄進者には、下出部日之出講、井原
猪原講等の名前がみえる。備後神辺あたりの信者も多かったようで備後の地名もみ
える。」と記されているも、所在地情報としては「高屋町谷高草」のみ。
ここに関してはもはや見つかるはずのない石鎚社と思い後回しになっていた所である
が、今回、近くまで来たので捜索してみた、何とか旧谷高草村を特定し現地入りしてみ
ると、高屋町奥地の山間部斜面に数件の民家が見えているがすべて廃墟であった。
そして最上部にある民家に限っては石垣が組まれ、木々の間から玉垣もみえる、半信
半疑で草木をかき分け近寄って行くと、門柱に「石」の印を発見、この時の感動は今も
忘れない、そしてもはや自然に飲み込まれつつある建物に近寄ると、石鎚社の祭壇
はそのまま残され荒れている、奥の簾の奥には舟形光背半肉彫りの石鎚蔵王大権現
の石像が今も残され他に木像の権現様に写真も残されている。
この石鎚社、門柱や玉垣の文字などの状況からして井原市史民俗編に記されている
石鎚社で間違いないが、もはや石鎚の神が鎮まる気配も感じず力尽きてしまった感が
してならない、今まで何百もの石鎚信仰の地を探し出してきたがこの感覚は初めての
経験である、しかし無事に発見できた事と、この地には石鎚信仰が繁栄していたことを
この目で確かめる事が出来て良かったと思う m( _ _ )m
もはや集落全体が無人と化しすべてが廃墟
そして最奥地の建物だけ石垣の上にある
建物の周囲には玉垣があり神社のようにも見える
ここが探していた谷高草の石鎚社である
自然に戻りつつある廃墟へ無理やり入っていくと
門柱があり上部には「石」の印がある
門柱には本と同じように「明治三十四年」
「一月吉日建之」
すぐ横には常夜灯があり
「石」の印がある
「高屋村野々通 二番講社」とある
玉垣には「本群井原町 猪原講社中」
「本群出部村字下出部 石出講社中」
そして奥にある石鎚社へ
何とかたどり着くも何十年も誰も着た様子はない
入口が左右に分かれ「男席」「女席」とあるが中で繋がっている
男席の中には祭壇が当時のまま放置状態であった
やはり女人は正面ではなく隣の部屋から拝していたようである
正面すだれの中には舟形光背半肉彫りの立派な石鎚蔵王大権現
石仏に痛みは無いがもはや神が宿っている気配も感じなかった
そして仏教的要素が強く屋内の感じからして昭和後半には無人だと思う
また一つ信仰の地が途絶えてしまった
置き去りとなった石鎚蔵王大権現、この先どうなるのか
この時の心境はしばし忘れる事は無いだろう
m( _ _ )m
旅する石鎚信仰者