2018年10月 石鎚山の鎖 3の鎖元の石碑 | 旅する石鎚信仰者

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やはり石鎚山は素晴らしい。

 

石鎚山の3の鎖元に石碑がある

この石碑は古い絵葉書でも確認され、何が記されているのか気になり探しに行った事

もあるが、その時は発見には至らなかった

しかし、今年になり何となく普段は通らない3の鎖元へ入っていくと、何と鎖元の岩場に

石碑が立ってある ! ! どうもこの石碑は時期によっては緑に覆われ下からは見えなく

なるようだ(>_<) ! ! 近寄ってみると文字の風化は激しく、読み取りにくいが光の加減で

読める時があり内容の把握はできた。

この石碑には中央に奉納「石鎚神社大鎖」右に「昭和四年七月 伊豫国崇敬者」そし

左に「松山下鍛治屋〇製作」とあった。

そして石鎚本教六十年史の年表に石鎚山の鎖の事は以下のように記されている ! !

「1779年(安永八)石鎚山弥山鉄鎖切れる」

「1780年(安永九)石鎚山鎖の掛け替え功労者、木地屋市衛門、第一番の先達会

符を受ける」

「1855年(安政ニ・五・一七)石鎚山二の鎖の切れたるを修復す」

「1928年(昭和三・五)石鎚山一の鎖掛け替え奉納」

「1961年(昭和三六・六・三)石鎚山二の鎖新設(各一条よりニ条へ)」

「1990年(平成ニ・五・一三)石鎚山三の鎖上りニ条掛け替え工事完了」

「1991年(平成三・五・一三)石鎚山三の鎖下りニ条掛け替え工事完了」

また石鎚神社一千三百年史には「昭和四一年十月一日、上り鎖一条増設」とある

更に「山と信仰石鎚山」には以下のように記されているがどの鎖かは記されてない

「天保14年(1843)安政2年(1855)明治15年(1882)昭和3年(1928)にも鎖が奉納された」と記され、唯一石碑の年号に近い昭和3年の記録が記されている。

こういった事から、石鎚山の鎖の掛け替え実態は近代史に集約されないまま、資料に

より掛け替え内容が分散しているようである。

そして今回の石碑に記される「奉納・大鎖・昭和四年」という掛け替えを示す内容は僕

の知る限りの資料には記されていない、年号に多少のずれは仕方ないにしてもこの

石碑が示す内容は、昭和四年に三の鎖を掛けたという事であり、まず間違いはないと

思う、しかしなぜこの実態がどの書物にも記されてないのか?それともこの石碑に

記される内容は全く別の意味だろうか?

ある意味この石碑の発見は新たな掛け替え実態があった事の発見かもしれない

と言うことで、これ以上調べる事はできないので3の鎖に関する事を一緒に記しておく

石鎚信仰の歩み・石鎚神社改訂一千三百年史には、平成2年と3年の三の鎖上り下り

各2条掛け替え時の御鎖の概要は以下のように記されている。

「一条の長さ130m (鎖が250本分) これがニ条」

「鎖一本の長さ 〇.五メートル(重さ約五キログラム)」

「鎖の使用部分の長さ六八メートル」

「鎖一本ずつに御奉納者の芳名を刻銘」

「御一人一本(初穂料、三万円)に限定させて頂き、引き続き御奉賛を承っており

ます」

と言うことで今の3の鎖は1条750万円もするんですね「やはり石鎚山はすばらしい~」

いう事である (^_^)。

 

 

 

 

 

古いハガキにはっきりと写ってある3の鎖元の石碑

このハガキからこの石碑の事を知った

何と記されているのか気になるのは僕だけかな?

 

新緑の時期は分かりにくい

 

近くに行くと分かるのだが鎖から離れていて

普通は誰も近づくとこではない

 

春先に3の鎖へ ! !

 

緑がなくなり石碑がはっきりと現れている

ハガキと同じ位置に今も残っていたのだ

 

感じからして苔でおおわれる時があり

べったり剥がれたような跡がある

そして夏場は緑に覆われ見えなくなる位置である

何より今見つけて良かったと思うばかりだ

 

上部には横書きで「奉納」とある

 

下部はなかなか読みにくいが光の加減で読める時がある

右の列に「昭和四年七月 伊豫国崇敬者」

中央に「石鎚神社大鎖」 左の列は「松山下鍛治屋〇製作」

と思うが左の「松山下」は怪しいm( _  _ )m

 

どうしても一文字だけ分からないが

「製」の文字が少し大きければ「鍛冶屋制作」だけかも

「やはり石鎚山はすばらしい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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