「日々勉強!結果に責任!」を掲げ、「国づくり、地域づくりは、人づくりから」を信条とする
参議院議員 赤池誠章(あかいけまさあき・比例代表全国区)です。
本年は、癸卯年。「国難を乗り越え、“跳躍”の年に」したいと存じます。
日本遺産は、地域の歴史や文化の魅力あふれるいくつかの文化財を線や面で繋ぐ「物語」として、文化庁が認定し、活用と保護の好循環を創り出そうというものです。現在、全国各地の104の物語が認定されています。
世界文化遺産が、文化財という点を保護することに主眼が置かれているところに違いがあります。
◎日本遺産 江戸の石畳道か残る箱根八里
日本遺産 箱根八里 地図
箱根といえは、天下の嶮と呼ばれ、箱根駅伝が有名です。
この箱根が、日本遺産に認定されています。名前は「旅人たちの足跡残る悠久の石畳道—箱根八里で辿る遥かな江戸の旅路─」です。箱根八里は、約32キロの道程を標高約800メートル以上の峠をほぼ真っ直ぐに上り下り、杉並木、低い所は松並木の下を、幅二間(3.6メートル)の石畳道です。なぜ石畳かというと、この辺りの土壌は滑りやすく、雨ともなると泥沼になるからとのことでした。江戸時代の石畳道が、所々ですが、現在でも残っているのです。
新幹線で、小田原駅を下車し、徒歩で小田原城へ。小田原城は、戦国の勇者北条五代の居城です。豊臣秀吉の総勢21万人の軍勢に対して、3.4万人で守るために、総構という周囲9キロの堀と土塁で囲みました。今の小田原市の中心市街地が入る大きさです。
その後、江戸時代となり、徳川十六神将の大久保忠隣と忠世親子か入り、東海道とともに、江戸を守るために箱根関所を整備しました。小田原は、東海道最大の宿場町でした。天守閣は、現在歴史博物館となっており、最上階からは、小田原の市街地はもちろん、相模湾、富士山も一望できます。
◎スポーツ流鏑馬 ういろう
スポーツ流鏑馬
小田原城内では、ちょうどスポーツ流鏑馬が行われていました。和種馬を使い、和弓を馬上から的に射る、誰でも参加できる競技です。
その中心人物が、北条早雲に請われて小田原に来て、650年経つ25代のういろう店主でした。
ういろうの店は、小田原城から箱根口を出て、旧東海道沿いにあり、今は和菓子で有名ですが、元々は薬種商であり、今でも店の奥では対面で家伝薬を販売していました。店の奥には、関東大震災にも耐えた蔵が、博物館となっていました。
◎箱根関所「入鉄砲に出女」
小田原から車に乗って、箱根へ。途中、寄木細工で有名な畑宿集落や旧街道の西海子坂、甘酒茶屋を通り、芦ノ湖へ。
箱根関所は、山が湖畔に迫り、必ずそこを通らなければならない所にありました。小田原藩士らが常時20名程で1ヶ月交代で詰めていました。
関所から急坂の怪談を遠見番所に登ると、芦ノ湖畔が一望にでき、遠くに富士山を望みます。入鉄砲と出女を厳しく取り締まったと言いますが、江戸260年の太平の世がつづくと、思いのほか自由に往来していたとのことです。
ここを、江戸時代参勤交代の大名からオランダ商館長、朝鮮通信使、武士、文化人、町民たちが、杉並木や松並木の下を二間(3.6m)余りの幅の石畳を歩いていたことを想像すると非常に興味が湧きます。
◎所々に残る石畳道 山中城跡
箱根峠を超えて、旧街道の石畳道甲石坂は、台風の影響で石畳が崩れ、復旧の検討中でした。
そして、車から降りて、杉並木の下の願合寺地区の石畳道を歩きました。石畳は、江戸時代からの残ったものと後で修復したものとを組み合わせて整備されていました。先人の営みを建材から後世に伝えようという意志と努力を感じました。
旧東海道に沿って、急坂地形を利用して築城したのが、北条氏の築城術の粋を極めた山中城跡です。空堀である畝堀や障子堀は、守りやすく攻めにくいつくりとなっています。しかしながら、戦力が十倍以上の秀吉軍に攻められ、北条軍は防戦空しく、開城となってしまいました。
山中城の障子堀
◎三嶋大社に参拝