我々の国体(憲法九条、象徴天皇、日米安保)───
われわれの国体と云ふものを考えてみたい。戦後新憲法が発布されて、就中その中でも世界に先駆けての「憲法九条」である。平和をモットーとした自衛のための憲法である。そして二つ目は僕の理解では憲法九条と関わりの深い「象徴天皇制」のことである。次いで1952「サンフランシスコ講和条約」の発効。日本は米国の庇護のもと西側諸国と結びつく独立国となった。安保闘争は1960年代のこと。岸信介の元、日米安保は片務条約から相互条約になった。池田勇人が「経済はお任せください」と東京オリンピックの1964には約束通り経済は2倍の成長率を遂げた。一方“軽井沢の恋”、皇太子は民間人の正田美智子さまと結婚なされて、たちまち“ミッチーブーム”が沸き起こる。集団就職で都会になだれ込んだ金の卵たちも生活の基盤がだんだん整い、皇室に対してより身近な存在として親しみを感じ始める余裕のやうなものがが生まれたのだらうか。象徴天皇制と国民との共同幻想“ナラティブ”が週刊誌等にも取り沙汰される。一方(上皇陛下)明仁皇太子のお気持ちの中には美智子さまとの一見平穏な結婚生活とは裏腹に、いつも不安なお気持ちが渦を巻いておられたのではないか。
1948,12,24岸信介釈放
12/23日、7人の絞首刑の後、あたかもX'masプレゼントの如く
巣鴨プリズンから返された。
■冷戦の激化に伴いアメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)。
日本を「共産主義に対する防波堤」と位置づけ、
旧体制側の人物を復権させたため、戦犯不起訴となる。
美智子さまは香淳皇后をはじめとする皇室の古いしきたりに悪戦苦闘し、そればかりか皇太子の誕生日は12/23、それこそが米国が捺した皇太子、いや日本国ヘの“スティグマ”残酷な刻印であった。1948その日、東条英機ら7人の絞首刑が巣鴨プリズンで為された。GHQの「日本国ヨ忘れるんじゃないよ」と云ふことだった。瑕疵の無いとされる昭和天皇には明らかに戦争責任が生じる。1947,9には問題の「沖縄発言」もある。“象徴”とは果てしなく遠いものであると口にされる上皇陛下は、おそらく日本国の高度成長の最中、新しい天皇像、皇室像を模索し始めたのではないだらうか。おとーさん昭和天皇の膨大な戦争責任を希釈しなければならない。1975,7/17皇太子と美智子妃さまの沖縄訪問。過激派による火炎瓶事件。慰霊の旅が始まった。

