大昔は母系、母性が当たり前だった。

「元始、女性は太陽であった」(らいてふ)。尖石の縄文考古館に寄って来た。相変わらず『縄文のビーナス』と『仮面の女神』が奥深く謎めいて迎えてくれる。さて“男系男子”がやたらと喧しい。土偶の多くはよく見ると大抵女性が一般で、それを証拠にすっかりお股にスリットが入ってゐる。『縄文のビーナス』は約5000年前、不思議『仮面の女神』は約4000年前と縄文1万4000年前からカウントするとゆうに縄文期の半ばを過ぎてゐる。“仮面”に至ってはどうも墓地に廃棄されたらしく、女神は一統に在って、呪術シャーマンであって、祭祀を司ったのではないか。イザナギとイザナミが“なりなりて合わさって”子作りが在った。創成期にどのくらい経ったか知らないけれど天照大神が祖神とされる。天孫降臨はその孫のニニギノミコト、その三代くらい後にやっと神武天皇が現れる。

「元始、女性は太陽であった」。縄文でははっきりと“母性”が象徴されている。神武天皇から“欠史八代”があってようやく天皇家も神話の時代に入ってゆく。崇神天皇(第10代)、垂仁天皇(第11第)、景行天皇(第12代)と来て、その息子が日本武尊の「大和はくにのまほろば」、東征、征西の神話に結びつくのである。その猛き日本武尊も東征に当たってはお伊勢様で自分の叔母に当たる倭姫命から草薙剣を拝受して出征を励まされる。日本の神話、古事記などにおいてもどうもいたるところちらほらと母性、母系が現れてくるのである。

日本の天皇家に於いてどうも武バッタ女系の方ではまず最初に神功皇后(夫は仲哀天皇/日本武尊の息子)でこれは“三韓征伐”で有名、この時に好太王碑(高句麗の王様)により西暦が分かることになる。碑文によると391年に倭が百済と新羅を臣従させたと云ふ記述がある。一方卑弥呼はシャーマン能く呪術をする者とされ、中国への朝貢外交として“生口”の献上などが魏志倭人伝に記されている。これらから卑弥呼の死去はおよそ248年と類推されるのである。先進国中国からは祭祀、権力の象徴としてなのだらうか大量の鏡が持ち帰られた。神功皇后の息子は応神天皇(第15代)。その子供は仁徳天皇(第16代)、この頃から日本は古墳時代に入ってゆく。

「天皇の成り手を探せ」と云ふ危機の時代があった。継体天皇(第26代507年)は応神天皇から5代後の子孫であり、乱暴な王様、雄略(第21代)、武烈天皇(第25代)の後に天皇家が途切れる危機があったのだ。それこそ今と同じ天皇家の係累を日本国中探し回ったと云ふ話だ。天皇家の周りにはそれぞれの経済基盤や権力基盤を求めて有力氏族、蘇我、物部、大伴氏らが群れていた。稲作“弥生時代”の頃から男系男子が相続の意味合いから定着し始めていたのだろうか。文明国(儒教)中国からの影響も色濃く表れてゐる。継体は越の国の方で探し出された。

 

倉石智證