甲斐駒黒戸尾根───

「山物語り」

わたしはねむたい。わたしは死ぬほどねむたい。あなたはねむくはならないですか。わたしは立ったまま眠れるほどにねむたいのです。わたしは山に入り、山を登って来ましたが、もう何度もねむってしまおうかと強い誘惑にかられました。いまの時季に草叢や岩の間で眠ったこともありますよ。心地よいねむり、夢にまるで溶け出てゆくようです。彼はほんたうにねむさうな細い目を開けて、この黒戸尾根のあの石碑や石の祠が倒れてゐるあの辺りがいいと云ふのだ。獣のやうなしなやかな発想だ。なにも一体になって仕舞へばいいわけだ。

 

私が頂上に着いて弁当を済ませて山から下りかけたころ、件の彼はやっと頂上を目指して斜面をゆるゆると上って来た。「どうするんですか」と聞くと、「予約なんか少しもしていない」と云ふのだった。このペースだと頂上からすぐに引き返しても、山小屋に辿り着くころには、おそらく日がとっぷりと暮れてしまうころだらう。ほんたうに山に寝て仕舞ふのだらうか。すれちがって山に登ってゆく彼の後ろ姿を見送っているとたちまちワッと陽が射して、彼の後背を照らし出した。

 

なるほどあれは山の子どもかもな、山神さまに遣わされた不思議大尽かもしれんな。私も不図、立ったまま歩きながら棒切れのやうに眠れるかもしれないと思った。さほど大きくもない岩を跨ぐ瞬間、どうしやうもない心地よい強烈な睡魔に襲われたのだった。

 

倉石智證