ものの世にはたいてい父と母がゐて

山のあなたに

山のあなたに

いったいどんなお姿なのだらう

 

遠い山の際に村落が在って

陽に当たって明るんでいる

どんなところにもとーさんとかーさんがいて

とーさんは厳格で、かーさんは慰める

 

山の端が青ずんでくると

もう誰もかれもが帰る時間で

浮かれていた気持ちも静かになって

敬い、省みて、そして家居に入る

妻が居れば妻に

ぼくは見て来たよ、と告げる

涸沢岳を降りて登り返し左へと巻いてトラバース。

奥壁バンドへ。

通過すると右へ巻いて、登り返すと北穂へ。

北穂から長い下り大キレット。

飛騨泣きから登り返して長谷川ピーク。

南岳へと鎖場を含めた長い登り返し。

貸し切り状態。

ラーメンに当然缶ビールは2缶です。

なんとか岩山登って巖肌にしっかり掴り

よく云ひ聞かせ何度でも

ぼくはこれから帰りますから

引き留めないでと

襟首を掴まれ

父のやうなものに

ぼくはもう大丈夫だからそっとしておいてくださいと

なんどでも

そしてなんとかやり過ごして戻って来た

 

手の平に冷えた岩稜を憶ひ出すよ

ああ、家はいいなあ

昏い梁は壁ごともう母のそれのやうで

深い呼吸と共に起伏(安堵)する

 

あんなところから真直ぐに村に入って来る道路が在って

自動車が一台

もうヘッドライトを点ける時間になった

 

倉石智證