1945年、高社郷の団員は24日夜から25日未明にかけて───

北信濃の高井富士と呼ばれる高社山はわが故郷の山である。

延徳田んぼから、平野村から、そして木島平村辺りから、

大勢の開拓民が、濛開拓開拓青少年義勇軍が、満州へと夢を抱いて渡って行った。

 

2013,12/6「特定秘密保護法」

2014,12/10施行

 

1936広田弘毅内閣「満蒙開拓移民推進計画」───

20年間に500万人を満州に移住させ、人口の10%を日本人にする

「満州開拓移民推進計画」を決議した。

農家の次・三男対策、農村の過剰人口の解消につながるので、補助金をつけて奨励した。

『王道楽土』『五族共和』等のスローガンを掲げる国家的大プロジェクトとなった。

まるで“防波堤”である。

軍事訓練も受けた「満州開拓武装移民」は銃も供与され武装されていたのだ。

皮肉なことに、この銃が後に自決の道具ともなった。

 

1928張作霖爆殺

1929世界恐慌

1931満州事変(柳条湖事件)板垣征四郎、石原莞爾

1932「満州国」(溥儀)

 

1945,5/8ドイツ敗戦→ソ連軍がソ満国境に集結

関東軍は、45年に大方は世帯主3万人「根こそぎ動員」を行い、

数の上では78万人の大部隊となっていたが、実質部隊は南方へと送られており、

かつての力はもう残っていなかった。

満州でのソ連の参戦は時間の問題だった。

梅津美治郎関東軍参謀総長は、

6月4日には、北部の満州地域を放棄して、

防衛線を大連 - 新京 -図們の三角線まで南下させ、

持久戦に持ち込む作戦を指示している。

諜報戦が繰り広げられ秘密厳守を徹底していた満州では、

こうした軍事秘密は開拓農民になど全く知らされない。

8/9ソ連参戦。

高社郷を管轄する宝清の西山393部隊より電話で避難の指示があった。

団の中で真剣な議論が行われた。

「軍と協力して団を死守しよう」

「満州に骨を埋める」

「最悪の事態には婦女子を処置する」いろいろな意見が出され、

青酸カリや剃刀も用意された。

8月11日豪雨の中、逃避行が始まった。

頼りにしていた部隊地に行くも、「無敵関東軍」は雲散霧消、もぬけの殻で、

いち早く安全な地に逃げ去っていた。

8月12日朝、古幡副団長は、妻と20歳を超えた息子二人を殺し、

最悪の事態への対処を身を持って示した。

15日、終戦。

17日、中村中隊から避難先等の指示があったのに、まだ終戦の事実が告げられていない。

“棄民”───

軍からも、つまり国家からも、情報からも「棄民」である。

(webを参考に)

19日、終焉の地となる佐渡開拓団部落に着く。

何度も血路を開こうとするが失敗し、

23日に再び戻る。

長野県関係4団のほか、新潟県の清和開拓団他3000~5000近い難民が終結していた。

しかし、守るべき関東軍はいない。

どう対応するかは、各開拓団に任されることになる。各団とも意見が分かれた。

ここで、高社郷の600人余は、他の団と異なる行動をとる。

「ノノさん(仏さん)になるんだよ」薄い口紅を差され───

高社郷の団員は24日夜から25日未明にかけて

大きな建物の中に大火葬場を自らの手で造り上げ、大人はお互いに殺し合い、

子供には言ってきかせて銃を向けた。

中には、死を覚り逃げる子供もいたが、大半は親のいう事に従い、

514人が自決して果てた。

母親や幼児には薄く口紅が塗られていた。

 

75年前の昨日から今朝にかけて、故郷の大勢の同胞が死んだ。

「ののさんになるのよ口に紅差され母に撃たれし小さき子らあはれ」

 

倉石智證