「アンネ・フランク」(紙の中まで)
1942,6/12お誕生日に───。
日記帳は“キティ”と名付けられた。
「あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを何もかもお話しできそうです。
どうか私のために大きな心の支えと慰めになってくださいね」
一方的な交換日記の形で・・・
「Arbeit macht frei」
寒いと思ふ
ぼくはほんたうにそれは寒いと思ひます
酷薄な
なんとも酷薄な
と云ふやうな云い方です
寒さは人がつくり出すんですね
夜と霧へ───
なにもかもがそして紙の中まで追いかけてくる
玄関に訪ねてくるのではなく
汽車が大きく息を吐きだすやうに鉄路に停止まる
バイオリンが錆び付いたやうに音楽を奏でる
すると列車から下ろされた大勢の人たちが
別れさせられるのでした
「働けば自由になる」なんて
いかにも寒々しい言葉ぢゃありませんか
林檎が揺れる
青いトマト
オオカミさんはどこに
麦の穂が熟れる
雲雀は高く
オオカミさんはどこに
オオカミサンハ自分タチノ中ニ
実際ノコトヰタンデスネ
あの人が高く拳を突き上げて指を鳴らすと
魔法のやうに明日はもっと良くなると云ふユーフォリアが生まれ
広告は誰でも車が持てるとうたったものだから
人々はオリンピックとマイカーの夢に熱中した
或いはユダの莫迦
何世紀もの間追いかけ回されることになって
悪いもののやうに、
そしてユダヤ人はどんどんゲットーに囲い込まれていきました
操車台に転結機が壊れた
列車は全くあらぬ方を向いたままだ
夜につまみ食いをすると
ほら、首筋に冷たい氷のやうな息を吹きかけられるによって
忠告はいつも大事に聞いていたのに
その夜と霧がつくり出す夥しい虚偽と真実
林檎もトマトも麦の穂も
季節も時間もみんなわたしの傍らを通り過ぎるままで
わたしたちは息をひそめて暮らしていたのに
或る日、不意に悲しみのやうに訪れるものがあった
バイオリンが錆び付いたやうに音楽を奏でる
わたしは人の善の善なるものを信じてゐたが
あゝ、それにしてもここは寒すぎる
わたしは15歳になってゐた
わたしは、わたしの日記のページが
こんどこそ閉じられるのを知ってゐたが
それでも、
死んだ後でも生きてゐたいと真実思わないわけにはいかなかった
寒さは人がみなつくり出し
ぬくもりもまた人がつくり出すんですね
それにしても
まさか、こんなに時が過ぎて
まだわたしのことを覚えて下さったのはいいのですけれど
こんな風に紙の中まで追いかけて来るなんて
ゲシュタポは嫌いです。
心なくも本のページを破り捨てた者がゐた。
「夜と霧」とは、ヒトラーが出した特別命令の呼び名だ。
夜陰に紛れて市民を捕縛し、霧のかなたへとその存在を消し去る───。
少なくとも600万人以上が犠牲になったといわれるホロコーストは
この名のもとに遂行された。
1944年3月25日
「死んでしまった後も生き続ける仕事がしたい」
と日記に書いたアンネは、それを果たした。
1944年7月15日。
自分でも不思議なのは私がいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。
だって、どれもあまりに現実離れしすぎていて到底実現しそうもない理想ですから。
にもかかわらず私はそれを待ち続けています。
なぜなら今でも信じているからです。
「たとえ嫌なことばかりだとしても、人間の本性はやっぱり善なのだと」。
この言葉はアンネ・フランクの代表的な言葉としてよく引用されている。
『アンネの日記』は、この後、7月21日に記述があり、その次の
1944年8月1日火曜日を最後にして終わっている。
1944年8月、15歳でヴェステンボルクWesterbork収容所、
ついでアウシュビッツ収容所に送られた。
2ヶ月後、ベルゲン=ベルゼン収容所に移送され、病気で衰弱、
1945年3月頃死亡。

