視線のおよそ 30 度の高さに 

眼を射る
くすのきの頭上に 

不快な光線が奔 はし った 

原爆がさく裂したのだ 

諫早湾に太陽が照るよ 

大きくて真赤な太陽が海にしずしずと入るよ 

そのやうにして圧倒的な光線は地上を無にして焼き尽し 

長崎の鐘が鐘楼に鳴り響くのはしばらくして後のことである 

うしなはれた人たちは永遠に言葉を持たないから 

地に落ちた言葉や 

地中に潜った言葉や 

言葉未然の言葉は一瞬に 

口唇から出た途端に蒸散してしまふものだから 

地や海や山やいたるところに 

肉親や縁者や知り合いの血の中に探しに行かなければならない 

 

19 歳の青年は敢えて戦闘集団に我が身を置いて 

鉄兜の紐を顎に結んだ 

 

顎門 あぎと よ 

めぐり来るまた巡り来る熱射の下で 

散らばって忘れ去られやうとしてゐる一つ一つの言葉を探す 

草に劍があるわけではなく 

それはこの旺盛な沸騰する樹液の下で 

蝉が鳴きしきる 

まるで自身や人類への鞭となって 

青い強靭な草のつるぎとなって 

夥しい死者の声に耳を傾ければ 

それは草のつるぎとなって

 

17,8/5 日経新聞
(野呂邦 くにのぶ 1937 生まれ。1945,8/9 疎開先母親実家の諫早市で) 

「視線のおよそ三十度ほどの高さに」ある楠(くすのき)の巨木のうえに、
とつぜん白い光の球が現れ、太陽のように輝いた。

大学進学を断念し、東京でさまざまな職を転々としたのち、

一九五七年六月、ふたたび郷里に帰った野呂邦暢は、驚くべき選択をする。

佐世保の自衛隊に入隊したのだ。

九月生まれだから、このとき十九歳。

二カ月の基礎訓練を終了して北海道の千歳基地に配属され、

翌年五月には除隊している。

十六年後の一九七四年、佐世保での体験を描いた「草のつるぎ」で、

彼は芥川賞を受賞した。

いわゆる鍋底不況のなか、とりあえず食べなければならなかった。

しかしそれ以上に大きかったのは、

「何かイヤなものを壊したい」「無色透明な人間になりたい」(「草のつるぎ」)、

そのために、一度自分を空っぽにしなくてはならない、
という切羽詰まった思いである。
 
ちなみにわが国では
1950 警察予備隊
1952 保安隊
1954,7/1 自衛隊が設立された。 

 

倉石智證