正義を一杯頭の中に詰め込んで山を登って行ったので、
岩山の辺りになると岩がガラガラと崩れ始めた。
土煙の中にふっと見ると男はそこにはもうゐなくて、
山をちょっと下ったところの大きな大木の幹にまたがってゐる。
大木は岩肌から崖の方に突き出ていて、
まるで天狗の鼻のやうだった。
くすりと笑ふものがいたが女は「いやだねへ」と。
やがて男の読経の声が聞こえ始めた。
背に一心にそれは麓の村の方まで響いて聞こえた。
「下りなさいよ」と女は勧めるが、
男はさらに大声で手に一心に祈り始める。
正義を腸にまで詰め込んだ男の頭は青々として汗を浮かべ、
青い靄は山々を取り囲み、
それで鳥や獣たちもただ静かに押し黙った。
凝っと木や藪影や岩に取り付いてそれらのゆくへを見守った。
「鳥に喰われろ」といふ者がゐた。
「獣に上げちゃへ」とうそぶく者もいた。
その時割れ鐘のやうに響く声がして、
一瞬天狗の鼻の上から、
男の姿は霞のやうに掻き消えていた。
「どもならん」。
また山の上の方で岩肌が崩れる音がした。
年老いたば様は幣ぬさのまへで影のやうにかたまって、
座敷ではそれが何の意味合いか分からず、
ままに一生懸命祈りを続けてゐる。
幣がまた揺れ始めた。
倉石智證