わたしは貝になりたい、

が豪雨のやうにあの地平から駆けてくる

 

あなたを孕みたかった

陽の光を飲み込んで私の躰はますます透明になる

井戸の中から空の青と

移りゆく真っ白な雲を見上げていることほど

悲しいことはない

ぷかり、と泡粒が水面へと上がってゆく

そんなことがあなたたちには届いただらうか

黙ってゐることはとっても長くてつらいのです

そして壁が汗を掻いて来る

ここでは昼の日中にみんな部屋にこもって夜を紡ぐ

いっそ墓地にでも出ませうか

死者はたいてい横になってゐるものですから

正義とは難しいものです

 

目の中に夜が彷徨ひ

ぱつんぱつんと無数の死者の花が暗闇に披きます

それに促されて結局何か吐いてしまへよと

必ず井戸の外の人たちは

たまに来て中を覗き込み

ほら、空は晴れているよと

確かに───

1951年9月、サンフランシスコ条約と日米安保保障条約が締結された。

しかし、条文には戦犯たちが待ちわびていた「釈放」の文字はなく、

刑は日本政府によって執行され続けた。

BC級戦犯裁判では朝鮮人148人が「日本人」として有罪になり、

23人が刑死。

(林るみ19,3/30朝日新聞)

 

道標は必ず丘の上にある

そして人のいい人たちが手招きし

ある時突然穴ぽこの下に落とされる

無数の花が夜の闇に披くから

月明かりの下を

玻璃のやうに明るい陽の光の中を

無数のわたしやわたし達がきしきしと駆けてゆく

ほんたうは言葉を飲み込みたかった

思はず出かかった言葉を塊のやうに飲み込む

そうすればますます陽の光のやうに透明な雫になって

それこそ井戸の外へと

雲雀のやうに空の高みへと

それこそが自由になって昇り出たかもしれないのに

それなのにずっと最初から終わりまで騙され続けて

もう終生井戸の底から外へ出ることはないと

怒りと諦めが頂点に達すると

地を踏み鳴らす音がプリズンに地響く

 

眼くらましめ、

わたしは貝になりたい、

が豪雨のやうにあの地平から駆けてくる

わたしの死者は立ったまま眠ってゐる

 

倉石智證

1958,10/31フランキー堺「わたしは貝になりたい」