/正殿の松の間にあり歌はれし真秀まほらの詩に光満ちゆく

 

「贈られしひまはりの種生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」(天皇)

「今しばし生きなむと思ふ寂光に園の薔薇そうびのみな美しく」(皇后)

 

/歌会の声重なりてゆく空は豊旗雲の嘉よみあらまほし

/飼はれゐし冬蚕ふゆごは春を待ちわびし

正月に蚕室を掃き清めるのは皇后のお仕事

/歌会の始まる間にも農樹かな

/茨城や牛久に寒むき幟旗ふる里まとめて花いちもんめ(稀勢の里の涙)

/作稀勢さきせてふ名前の重き横綱の怪我に泣かされ土俵を降りる

/悦子さま天に召されて声懐かし天の窗まどから昔噺を

1/12の同じ日に亡くなられた市原悦子さん、梅原猛さん。同じ“日本昔ばなし”ても───

/おっちゃんは古層を尋ね穿ほじくりぬ水底の歌なにか殺伐

梅原猛『水底の歌』───

文化の基層は必ず「辺境」や「周縁」に在るとする思想は

すでに柳田國男や、レビー・ストロースも論述していたことだ。

山窩の思想は天皇家の基底に含まれるものでもある。

出雲の大国主神は大和に来て大物主神となって三輪山に祀られた。

三輪山が神体で、山麓に拝殿があるが、本殿はない。

核心はいつも空虚になってそのありがたさには顔がなく、

その意味論はいまの象徴としての皇居につながってゐる。

「仏は常にいませども、現ならぬぞあわれなる、

人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見えたもう。」(後白河院『梁塵秘抄』)

神仏混交はとっくに始まっていた。

中世は暗く、怨霊たちはたばかってゐる。

 

「ひんがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」

歌聖・柿本人麻呂朝臣の歌である。

文武天皇の父は草壁皇子。

草壁皇子の母は持統天皇で、持統天皇の夫は天武天皇で、

天武天皇と持統天皇(鵜野讃良皇女)の姉(大田皇女)の間には

かの誉れの高い大津皇子がゐた。

持統天皇は姉と天武天皇の息子、大津皇子を死に追いやった、とされる。

 

「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」

近江の大津京のことである。

とすれば柿本人麻呂は天智天皇にも仕えたかもしれない。

「・・・野守は見ずや君が袖ふる」とは額田王の歌で、

天智天皇と後の天武天皇とが額田王を奪い合ったとの話まである。

一夫多妻、妻問いのおおらかな時代だったとも観想されるが、

一方、激しい兄弟、骨肉間の争いが続いていた。

いわゆる天皇家とはそのやうな血で血を争う系譜の上で成立してきたものでもあるのだ。

怨霊は平安末期、西行の時代の崇徳上皇まで続く。

 

陸奥はまつろはぬ民、阿弖流為あてるいも然り、無念の菅原道真も然り、

怨霊はすべて神として祀られるのだ。

神ながら神さびししも・・・天皇家を尊崇しながらも、

「ひむがし」に軽皇子(文武天皇)の曙光を喜びつつ、

「かへりみすれば」と草壁皇子のみならず、累々たる死者の屍に思いを致す。

それは人麻呂の死と再生への慨嘆、壮大な輪廻への暗喩だったのではないか。

 

1969石牟礼道子「苦海浄土」

諫早湾のみならず公害問題は日本のコンビナートのあちこちに。

1970高度経済成長と「大阪万博」

1970,11/25三島由紀夫自噴。

ベトナム戦争は未だ真っ盛りで、米国はしかし双子の赤字に耐え切れずについに

1971,8/15ニクソンショック。

1972,2あさま山荘事件

1972,5/15沖縄返還

1972,9/29「日中共同声明」(田中角栄・周恩来)

このやうな転変とする時代背景の中で、

1972「隠された十字架」

1973「水底の歌」が発表された。

・・・ぼくは学者はダメだな、と思ったのはここいらからだ。

その前から続く、世界と日本の時代の軋みを感じていない。

「かへりみすれば」ではあるが、具体的問題解決を示さず、

東日本大震災であらためて「文明論」を語られ始めても困るのだ、

もう宗教でさへ、かける言葉の一つもなかったのだから・・・。

1972水俣病患者の坂本しのぶさん(石川武志撮影)

1972石川九楊「エロイ・エロイ・ラマサバクタニ」

灰色の紙いっぱいに文字が躍る作品(1972年、ギャラリー白い点蔵)

60年代から始まった反戦運動は世界的な高まりを見せました。

にもかかわらず、それはやがて敗北し、消えていった。

「神は我を見捨てたか」とはキリストが磔刑の際についに己が口を出た言葉だ。

 

倉石智證