ぼくは少しものでも考えてみようと思って山に入ってみたんだが
まいったなー
そのもののみたいなものはすぐにぼくの海馬あたりから流れて
代わりに
一歩踏み出すたんびに不思議に絡まった木の根方とか
ややこしい形をした石や岩が足元に迫って来る
過去はすぐにかうして
蹠あうらとわたしの背中から後ろへと行ってしまうものなんでせうが
ちょいと小暗い径に入ると
まあ不思議と蝶々が木漏れ日のなかに湧いて出る
あゝ、あれはサトキマダラヒカゲで
あれはアサギマダラ
ここいら辺ではどうやら行倒れた人もあったらしく
あんなとこにお地蔵さんがクマザサに奥深く立ってゐる
まったく蝶はどうしたもんか
後ろになったり前になったり
まるで自分の重さも無くしたみたいにふわふわと飛んで
そして一時、幹の後ろに回ったかと思ふと
さっとどこかへ行ってしまふ
ぼくが真剣に手を合わせるお地蔵さんどころじゃないね
そして海馬からどんどんものの気配のやうなものが流れ出て行って
それはどうも透明な気体のやうなものかもしれないが
あゝ、あんなところにヤナギランが咲いてゐる
海馬ときたら覚えるんぢゃあなくてすぐに忘れるんだ
そしてほれぼれとその山緑のなかのピンクの色に見惚れてゐる
宿命のやうに、
と誰かが云ふことでせう
でも誰がいったい必要があって
こんな色彩とこんな構図を決めたんでせう
それに次に一番に困ったのはトンボウです
少し高いところに来ると蝶々よりもトンボが群舞してゐる
岩にしらしらと陽が当たってゐる秋の日に
まだ暑さが地衣に残り
避暑を求めてトンボウたちは山の上へとやって来る
僕が一歩を踏み出すと石の上にトンボがやって来る
何千と云ふ人たちの山靴で擦り減った岩に
そのちょうど形の良いところに来て
二匹も三匹も翅を休めてゐる
十センチくらいなところにぼくが踏みつけさうになっても
ピクリとも飛び立とうともしない
愛嬌のある眼玉がきょろりとこちらを見上げる
宿命のやうに、と誰かが云ったことで
ぼくはもうすでに考えてゐるのでした
蝶々やトンボさへも一致した運命のやうに全山で動いてゐる
熊鈴をとほくで聞くクマでさへも獣臭を岩や樹幹に擦り付ける
どれ一つとっても休んでいるものとてなくて
けふはお日様がぐるりと辺りを取り囲んでくれているのです
分かり易く、「下ノ芝」「中ノ芝」「上ノ芝」とあって、
中ノ芝辺りからは田代湖が見えますよ
そうすると苗場山の前山の神楽ヶ峰まではもう少しになります
この季節にはリンドウが登山道の径々に咲いて
涼しさを青色に収め
とっても気持ちを慰めてくれます
気が付けば考えは
また山のどこかへ流れて
消へていつてしまいましたね
神楽ヶ峰 9:25 八合目
倉石智證




