感覚だー、感覚だ―と
子供が缶からを鳴らして村の道を走って行った
しばらくしてからまた
感覚だ―、感覚だ―と云って
なにかバケツのやうなものを鳴らして走って行った
家の中で大人たちはひっそりと耳を欹て息をひそめた
小さな子供たちはわざと眼をきらきらさせた
大分経ってから大人たちは鍬や鎌や鶴嘴を手にしたり
軽トラや耕運機やSSに乗って道にぞろぞろ出て来た
冬晴れの甲府盆地はあくまで青く晴れてゐる
有線放送が村ぢゅうに何かしゃべって
それは家の中まで聞こえた
大人たちは一旦、みな家に入った
昼日中、畑や果樹園からまた人っ子一人ゐなくなって
村はお寺の方からシーンと静まり返った
チリーンと鈴が鳴らされたやうな気がする
するとまた村の一本道を
こんどは割れ鐘のやうな声で走りすぎて行くものがあった
子供がなにか急に大人になったやうな風だった
とにかく遠くの方まで行けるだけ行って
野の末でポンと跳ね上がって
しまいに「感覚だ―」と云ったやうな気がする
もとよりわれわれは自分の脚で立たなければならない
「自分の感受性くらい自分で何とかしろよ、莫迦者め」
と茨木のり子が云った
富士山がのっと顔を出す
倉石智證
1960,5,11アイヒマンが逮捕され、アンナ・ハーレントは傍聴席から「ニューヨーカー」に寄稿。「上から命令されただけだ」───アイヒマンの陳述にただならぬ我々自身の陥穽を自覚、それを“悪の凡庸”と名付けて批判した。大衆者に潜む日常性のことである。
「大人者、不失其赤子之心者也」(孟子=前372~前290)
「大人(たいじん)とは、その赤子(せきし)の心を失わざる者(ひと)なり」。意味の枠組みにとらわれないで、ものをまっすぐ見つめる。変化の兆しに敏感でいる。この《未熟》を護(まも)るためにこそ、人はものごとの真の軽重をわきまえていなければならない。間違いを間違いと言わなければならない(17,12,14朝日新聞「折々のことば」鷲田清一)
現代に暮らす多くの人達は、その社会システムにのっとってSNSやコンビニ等、人々は自動機械のやうになってある種の人間の生物的起源にまで遡る「感覚入力」を制限してゐる。現在に生きると云ふこと自体が、人々の「感覚入力」と云ふ本然性を未然にしてゐるのかもしれない。特に人々はそのメディアの及ぼす「効用」においてますます動物化するポストモダンと化し、考えるのではなくただ単に同調し、実際にウェーブすると云ふ具合だ。
大衆はその価格に於いて"無償化"同調し、スキャンダル"日馬富士事件"に於いて傾身し、サロン化するGPSに於いて「いいね」し、不安に於いて"北朝鮮"一気に衆合し、衆愚する。権力がそれらを見逃すはずがない。
西洋キリスト教社会はその意味論に於いて先行し、自我を作り出した。見聞きし、見知ったり、触れたり味わったりするすべてのもの事を常に習慣として意味に変換し、秩序を与え意識化"ディベート"して来た。一方、西洋の意味論に終始することに飽き飽きとしたロラン・バルトは東京のど真ん中に浮かぶ皇居に対して、そのひたすらな空虚さに、意味を剥奪された表象を感覚し、「…であるかのやうな」その象徴性システムに讃嘆した。
我々日本人は、忍耐さへ必要とされる西洋のねちっこい長編物語性は苦手なのかもしれない。源氏物語でさへ、そのストーリーは連綿すると云ふよりも、そのれぞれの主人公の運命へと拡散するようだ。万葉以来の我々のツールとしての短歌や、或いは俳句はその物語性に於いて凝縮されたものであり瞬発的であり、論理性を破断するものだ。西洋はひたすら止揚"アウフヘーベン"し、われわれ東洋においては主題は主語にのみ凝縮し、「…である」「…でなければいけない」と云ふやうな述語を可能な限り省き、禅の世界のやうに主語は突然中空に抛り出される。
我々の世界的現在に於いて、グローバル化はますます加速し、その影響は経済合理や功利に於いて人々をますます日常性へと駆り立て、世界は均一化され、要素は均等化され、無意識の裡に意識の深いところでますます悪の凡庸さと云ふものが叢生してゐるのかも知れない。
1977茨城のり子(51歳)は代表作のひとつとなる『自分の感受性くらい』を世に出した。
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

