コケタンダッテ
どうもこけたらしいよ
スッ転んだんだって
まあ仕方がないね
揚げ足をとるのはよくないよ
上げ足だね
まったく宙に浮いちまった
そんなもんだから映像は全部削除されて
どっかの国みたいに画面が真っ黒になる
答弁しなくていいの
何もなかったことにしてもいいんだ
なんだ国会と同じぢゃあないか
あゝ、知りたい知りたい知りたいって
あゝ、見たい見たい見たいって
どうも国民はみんな下種げすになる
おじいちゃんの真似をしたって
どう考えてもおじいちゃんは昭和の妖怪
器がどうも違うんだから
おぬしも悪だのうって
なんか用かい ?
ふん、すねてやる
お笑い芸人でもあるまいし
なんか止めて置けばよかった
お茶の間を沸かせて、はららはらどきどきと
これだけはもう語り草でずっとずっと残っちゃうね
千年も後に
やれやれ、なんか妙に砂を噛むやうな
バンカーショット
いつぱいいっぱい武器を買う約束をして
倉石智證
1957,6/19岸信介は会談後午後、アイゼンハワーに誘われてゴルフを。
その第一打が見事な"ナイスショット"に。
■1960,1/9調印
1960,6/19国会で「改定安保法」成立。
午前0時、「安保改定」参議院の議決を経ないまま自然承認となる。
これに反対する人々が18日、国会正門前の道路を埋めた。
1960,6/15(加藤登紀子)都立高2年。雨の中数十万人が国会を取り囲む。
「もう高校生は帰りなさい」と云われて家に帰ったその夜、東大生の樺美智子さんが機動隊と衝突して亡くなったというニュースが。
1955,7/29(オネストジョン配備)米国防省、核弾頭も装備可能な地対地ミサイル・オネストジョンを翌月日本に配備すると発表。
1955,7沖縄土地接収
1955,11/14『日米原子力協定』
1955~60年代砂川闘争住民運動
■1955~60年代砂川闘争住民運動/砂川事件
■米軍立川基地拡張工事反対
1956英国は豪州アボリジニの地マラリンガで核実験を。
1956,12/12「日ソ共同宣言」
それ以前8月ころに例の"ダレスの恐喝"。ダレス国務長官の「二島返還」に対しての横やりが入った。
1956,10スエズ危機
1956,12/18日本の国連加盟(重光葵の「国連演説」=平和主義)
1957,1/30「ジラード事件」基地内でやっきょを拾うことも生業にしてゐた主婦を銃でねらい撃ちして殺害。
主婦は「ママさん大丈夫」と呼び寄せられて撃たれて死んだ。
1957,5(岸信介)「核兵器も今や発達の途上にある」
「すべての核兵器を憲法違反とは云えない」17,7,25朝日新聞
1957,7/8基地測量中に基地内に入ったとしてでも学生7人が拘束、起訴される。
1957吉田茂「自衛隊員は日陰者である方が」の発言。
1958,6「憲法問題研究会」“改憲を目指す”1957岸内閣で発足した内閣の憲法調査会。
1959,3/30"伊達判決"「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。
───全員無罪判決。
1959,12/16最高裁田中耕太郎長官
「外国の軍隊(米軍)は(日本の)戦力にあたらない」(9条との違憲性について)
他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」(「統治行為論」採用)として原判決を破棄し地裁に差し戻した。日米安保については憲法判断はしない、そぐわないとしつつ、7人が基地内に踏み込んだ(現在の地位協定に関して)ことに対しての違法性についての裁判であるにもかかわらず───破棄、地裁に差し戻し、
この後地裁で全員有罪が確定される。
この時の「憲法9条は個別的自衛権を否定するものでない」が高村正彦の牽強付会、いつの間にか「集団的自衛権容認論」へと発展した。つまり国固有の権能である自衛権の中には集団的自衛権も含まれる、とするものとなった。
田中耕太郎は最高裁判決の前に駐日大使ダグラス・マッカーサー2世と面会して裁判の見通しについて伝えてゐるといふ異常な事実が米国の公電により公開された。複数の公電が伝える長官と高官らのふるまいは、司法の独立だけでなく、国家の主権すら忘れ去られていた疑念を抱かせる。
■「イージスアショア」日米同盟はいくらお金があっても足りない・・・・・








