「こう次から次へと自分のこんが出来んようになるなんて・・・」

そんなことを云ひつつももう縁側に行ってじ様と遊んでゐる。

こんすればもっとお日様が入って来るようになってあったかくなる。

両手の平を膝の上にそろえて開き、お日様に翳すのだ。

妻の仕事は朝から途切れることはない。

部屋から部屋へと掃除機を掛け回してゐる。

掃除機の音が仕切り仕切りに大きく聞こえたり小さくなったりして

二階のわたくしの耳元まで届いてくる。

ばーさんが一周忌だとて明日早くからお出かけになる。

下着から、上着、持ち物まで全部の準備を手伝ってあげることになる。

土曜日、明日の朝のことを今から入念に、納得させるように、繰り返し繰り返し、

ほら、大丈夫だからねと云って聞かせてゐる。

明日は80を超えた弟さんが車を運転して迎えに来る。


御不浄の冷たきまでに古き家

/ばあさんの昼寝に過ぎずアイマスク夫婦で寝たりおもしろきかな

/ころ柿の肩寄せ合ひてこう吹きぬ

/柿の木に柿の呟き聞こえけれ

/潮の香やRの付きし牡蠣になり

/軍手して牡蠣剥く牡蠣の生せい滴り

/冬薔薇頽くずをれる間や陽の光

/ままにままにまにまにひょっこりひょうたん島

/漱石のそっくりさんの喋りぬるアンドロイドの唇くち艶めかし

/姜(尚中)さんの乱れし髪の昼談義こんなにもててあとどうすんの

/自転車で妻農協に歳暮かな

/施肥するや甲府盆地の冷へまさり

/異邦人駅出て師走の風に遭ふ

/子の親の寝かし付けられ虎落もがり

/李さんは葱喰ってプーをしたりけれ

/くまんざれ娘に頼み事木の葉髪

/間引かれて茹でられて菜青々と



江青はどうなったのと青い鸚鵡が聞く。

江青は連れていかれたよと赤い鸚鵡が答える。


倉石智證

1966,6文化大革命が始まる。

「階級闘争を忘れるな」(毛沢東語録)

「造反有理」を掲げ、江衛兵たちの“つるしあげ”“家探し”が常態化して来る。

1966は主に資本家が対象者だったが、

1967ころから知識階層にもそれが向かうようになる。

日常の中に潜む権威を破壊せよ───

急先鋒を担ったのが江青ら「四人組」。

毛沢東と、修正主義者、劉少奇や鄧小平らとの権力闘争である。

「思想改造」を名目に

1968,12から「下方」が始まった。

スターリン亡き後、フルシチョフがスターリン主義を批判し始めたやうに、

毛沢東は、劉少奇、鄧小平、林彪らを恐れた。

「格差全廃」「農本主義」こそ、国家の大本、正義である。

うるわしい平等主義のため多くの若者たちも地方、辺境へと追いやられた。

この中には1970年代初めの頃の、

今の習近平や、王岐山も含まれる。

きびしい生活の辛酸をなめたのだ。


江青は毛沢東の奥さん。

1976文化革命は終焉し、毛沢東は江青ら「四人組」を見限り、

江青は収監され、執行猶予付き死刑を宣告された。

長い獄中生活で江青は病を得て、

1991年5月14日に、北京市北部の北京市昌平區にある

小湯山秦城監獄で精神病の療養中に首吊り自殺した。

古新聞の片隅に書かれた

「毛主席 あなたの生徒 あなたの妻が いま…会いに行きます」

というのが遺書である。


因みに───

1958,5「大躍進運動」(近代化)が始る。

重要産業に傾斜、鉄鋼増産化が図られ、鍋、釜、農具などの供出が強要される。

農村の疲弊著しく、餓死者が続出。

1960は1年間だけで1000万人以上が死亡したと云ふ。
経済状況はまともでなく、客観性を失っていた。
バランスを取り戻そうと鄧小平らの修正主義が入って来る。


文化大革命では、

1966~76、最大で200万人の死者(16,12/7NHK)


おそろしい話だがかういうやり方は

カンボジアの"クメール・ルージュ"ポル・ポトに受け継がれ、

かの地でも何百万と云ふ人たちが犠牲になった。


毛沢東も共産主義もまだ総括が済んでゐないのではないか。

カストロさんは自分を火葬にし、銅像の類の建設を禁じたが、

中国ではいまだに毛沢東は偶像化されてゐる。