わたしが気が付いただらうか
わたしを気が付いただらうか
わたしが部屋を通過する
わたしの気配が部屋を横切ってゆく
時間がもどかしくもわたしを運ぶ
時間の中でわたしは私であることを忘れる
1957瑛九(えいきゅう)「空の目」
それは賑やかなスーパーの売り場へ行っても続く
わたしがカートを押して
野菜売り場に立ち止まる
むろんカラフルな野菜をあれやこれや品定めをしてゐるのは妻だ
この定価の前では心底行悩む
その上お肉があって魚売り場まであるのだから
妻が冷静でいられないのは無理もない
わたしは部屋を出てわたしがカートを押す
ほぼ、寸分の狂いもなくわたしが押すわたしを
だから、だれかたしかにわたしを気が付いただらうか
いいえわたしが先に気が付くのだ
さうではなくわたしがわたしであることを気が付いただらうか
今や値札ではなく肉の塊にだけ眼が奪われる
その先に林檎があり
そのずっーと先にチョコレートがあった
あらゆる事柄にHowではなくWhatになりかかるころ
わたしは妻のではなくわたしの時間の中で
私は誰だとわたしに問いかけてゐる
倉石智證
2003池田晶子『14歳からの哲学』
私たちのこの宇宙の、
生(ある)と死(ない)というごく当たり前な自明を問い続ける。
哲学は道徳とは違う。
「正しさ」でなく「真理」の探求。
どう生きたらいいかでなく、生そのものを考える。
とはいえHowからWhatへの転換は、結果として人生を清々(すがすが)しくする。
考えた先にあるのは解放の哄笑だ。
「私」の本質を考えていくと、自(おの)ずから謙虚にもなり人生の質が変わっていく
(小池昌代15,10,18)
福岡伸一15,5,24「動的平衡」
私たちは常に動き、流れており、身体はそこに浮かぶうたかた。
私たちは粒の容(い)れ物ですらない。
生きるとは流れ“時間”そのものである。
:日本経済新聞
竹内整一(高校の同期)
「いのちがわたしを(私達を)生きてゐる」
わたしが命を生きているのではなく───
