あちらさんからお願いして来るに違いない、
と云ふ算段が、
こちらから「お願い」するに至ったのは、
多分、ほぼ
1947,9の“天皇メッセージ”によるものだと思ふ。
米国の外交関係者のある人は
「それは非常に天皇の“self-interest”を感じさせるものだった」
と嫌悪感を示すほどで、しかしそれほどまでに帝王学の中で培養されて育った天皇にとって、
皇祖皇宗以来の“万世一系”の方が大事に思ったのかもしれなかった。
あるいは、戦前戦中の軍部の専横がよほど嫌悪を掻き立てるものであって、
それらがまた復活するのを忌避、
米国における日本駐留を結局望むことになったのかもしれない。
“天皇メッセージ”───
1947,9「アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している」
昭和天皇の意向を御用掛の寺崎英成が米国に伝えた。
■(片山内閣)外相の芦田均は内奏で違和感を覚える。
内外政に強い関心を寄せる天皇の言動は、
新憲法下での象徴天皇制から逸脱しているように思えたからである。
冷戦はすでに始まっていた。
日本はポツダム宣言を受諾し、同時にトルーマンは「停戦命令」を出した。
一方、遅れて参戦したソ連はまだ占守島などを攻撃、
留萌沖での魚雷攻撃「3船引き揚げ船の悲劇」なども引き起こした。
原爆の威力を目の当たりに見せ付けたトルーマンは、
「日本の本土はすべてアメリカの占領下に置く」と、
このスターリンの要求を拒否する。
「北海道の北半分にソビエト軍が入り、日本軍の降伏を受けることにしたい」スターリン
■留萌⇔釧路line
のことである。
1946,5,3~48,11,12東京裁判
1946“復員”品川駅

1946,5,19「朕は たらふく食っている 汝 臣民 飢えて死ね」
食糧メーデー“プラカード事件”
1946,5,23“”玉音食糧危機
1946影山光洋「小麦の収穫祝、家族の肖像」の子供たちは祝いの席を心から喜んでいる

国内では腹をすかせた民草が“不敬”のプラカードに猖獗したが、
外地では戦犯が続々と刑の執行に遭いまみれた。
天皇の“食料玉音”があった同じ日に
1946,5,23木村久夫“チャンギー刑務所”
「音もなく我より去りしものなれど書きて偲(しの)びぬ明日という字を」
遺書は、死の数日前、偶然、手に入れた田辺元著『哲学通論』の余白に記されたもので
「日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中に負けたのである」
「私は死刑を宣告せられた。誰がこれを予測したであろう。
年齢三十に至らず、かつ、学半ばにしてこの世を去る運命を誰が予知し得たであろう」
「私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為(な)したのは他の人々である」
木村久夫(学徒兵)大阪府出身、
昭和十七年四月に京都大学経済学部に入学。その年の十月に入営。
戦争終了後、シンガポール・チャンギー刑務所で、戦犯として刑死。
二十八歳での死である。
道浦母都子15,5,10 :日本経済新聞
1946巣鴨プリズン“寄せ書き”東条元首相の書き込み(中央)=鍋島明子氏撮影・共同
1945,6,6破壊された首里
戦前の文字通り懐かしい追憶なのである。
古事記、日本書紀、皇祖皇宗も縁遠い沖縄県民は、
“万世一系”急ごしらえの皇民化のあげく、日の丸の旗の下、本土の捨て石にされた。
1946,6(吉田茂と憲法9条)
今の憲法がまだ明治憲法の改正案だった昭和21年6月、
時の吉田茂首相が9条にからんで国会で答弁した。
「改正案は自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」
「近年の戦争は多く自衛権の名において戦われた。
満州事変しかり、大東亜戦争またしかり」
以来9条は一字一句変わっていない:日本経済新聞
1946“傷痍軍人”
多くは軍帽をかぶり、白衣をまとっていたことから「白衣募金者」と呼ばれた。
(GHQ)軍人恩給が廃止されると、生活に困り、
街頭でアコーディオンやハーモニカで哀調を帯びた旋律を奏でながら募金活動をする人が出始めた
■傷痍軍人が使っていた義手を見る親子(東京都千代田区の戦傷病者史料館「しょうけい館」)
1946,8永井隆「長崎の鐘」(GHQ指止め49,1出版)
国の興亡よりも国民の生活が本位である。
(僕はこの言葉はキーワードだと思ふ。国家が諸々の諸悪を演じる)
そしてこの本の内容をテーマとした歌謡曲がつくられることになった。
作詞を依頼されたサトウハチロウははじめは歌謡曲の詞を書くことに難色を示したが
「長崎の鐘」を読んで深く感動し作詞を引き受けた。
作曲は古関裕而
■1949,7,1藤山一郎、日本コロンビアよりリリース
1946,11,3天皇、皇后両陛下を迎えて開かれた新憲法公布の祝賀大会。
日本は新憲法で国民主権や平和主義を掲げ、戦後復興の第一歩を踏み出した。
前にも書いたことだが、この日付=5/3は東京裁判が開廷した日だった。
米国の底意地の悪さを感じないでもない。
ついでながらこの翌日
1946,11,4“ユネスコ”国連の専門機関「国連教育科学文化機関(ユネスコ)」が発足した。
教育、科学、文化の協力と交流を通じ国際平和と人類の福祉を促すのが目的。
20カ国でスタートし、現在は195カ国が加盟。
日本は51年に加盟し、分担金が事実上、最も多い国となっている。
「人の心の中に平和の砦を築く」が基本精神
ユネスコ憲章には
「平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなけばならない」
しかし、ユネスコも「世界遺産」、
つまり将来に人類のどんな価値を守り伝え残そうとするのかよりも、
次第に政治化への道へと転落してゆく。
■終戦後の国際社会への復帰とは=国際機関への復帰を意味する。
日本は国連に加盟する以前にユネスコに加盟。
→多くの人材を送らなければ=ルール作りに関与できない15,11,7
1947,3「トルーマン・ドクトリン」が打ち出された。
このときに米国はギリシャが旧ソ連の衛星国になることを阻止する行動に出た。
疲弊したイギリスからギリシャ支援を米国が引きうける。:日本経済新聞
1947,4笑顔で語らう昭和天皇と皇太子(現天皇陛下)
=1947年4月の宮内省職員運動会
1947,6原民喜「夏の花」書き出しは
「私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った」
GHQの検閲を考慮して当初の「原子爆弾」を改題。 梯久美子 :日本経済新聞
1947,7,19アウンサン将軍暗殺
1943,8アウンサン将軍“金メッキの独立”
日本軍はビルマを独立させたが、
日本軍に行動の自由やビルマの国軍・警察への指揮権を認めていた。
独立のため日本軍と協力したが、やがて、アウンサン将軍は抗日に転じる。
1945,3アウンサンは連合軍の反撃に敗走を始めた日本軍に反旗を翻した。
1948,1,6“反共の防壁”
米ロイヤル陸軍長官が日本を反共の防壁とする演説。
ソ連が東欧で影響力を強めるのに伴い、
1948ごろから米国の日本の占領政策は大きな変化を見せた。
それまでの徹底した非軍事化から、
日本を「反共の砦」にするように舵を切った。
そのための策が、日本の経済復興、そして
沖縄の米軍基地の拡充だった。
経済復興足がかり───
1946,11松下幸之助は倫理教育を目的としたPHP研究所を設立し、
翌年、月刊雑誌「PHP」を創刊した。
through「繁栄(prosperity)」「平和(peace)」「幸福(happiness)」はPHPのキーワード。
1946,12,27吉田内閣「閣議決定」傾斜生産方式導入
■生産力増強という供給力拡大によるインフレーション収束が図られたものである。
吉田の私的ブレーンであった有沢広巳が考案したものをもとに
“石炭→鉄鋼→石炭=増産が増産を生む”
さらに化学肥料、電力などの重点的な産業に資材を重点配給することとした
1947(ソニー)御殿山の最初の本社前で。
左から2人目が39歳の井深氏。まだバラック建てだ。
エサキダイオードを発明してノーベル物理学賞を受けた江崎玲於奈が、
井深の葬儀で読んだ弔辞にヒントがある。
56年に入社した当時の企業文化を「組織された混沌(こんとん)」と表現している。
“組織された混沌”=ブラウン運動のことである。
GHQが手を付けずに残したものに、
金融システムと、戦前からの優秀な霞が関のテクノクラート達(大来佐武郎さんなど)が存在した。
600万人とも云われる引き揚げ復員者を、日本の産業規模が回転し始め、
次々と雇用に吸収して行ったのである。
1949,3,7ドッジ“経済安定9原則実施”について声明
“ドッジライン”=インフレの「一挙安定論」
→超均衡財政
→財政の黒字化
→日銀による(国債・復興金融債の償還に充てられ)マネー吸収一方、
公共支出増大の主因だった復興金融金庫は、
1949,3で融資を停止した
しかし、なかでも一番重要なのは
1㌦=360円の固定相場の道を開いたことだったろう。
円安固定は日本の輸出には必携のツールだった。
1949,4,4NATO発足North Atlantic Treaty Organization盟主は米国である。









