チリーンと
山に入ると妻はすぐに消えてゐなくなる
まるで攫われでもしたのかと
山の斜面の雑木の茂みに
枝枝がこすれ合う音がまるでくすくすと忍び笑ひのやうに
一体、だれと仲良くしてゐるんだらうと訝しむ
「あったよー」と声が何処かに聞こえる
ミスチーフ(悪戯)は、
時にグリーフ(悲しみ)
枝枝を風のやうに駆けめぐる精霊たち
大きものよ
山毛欅ぶなに傷つけし
大きものよ
いま背を向けてようやく山に帰ろうとする
精霊たちが伝い走ると
日に夜に
枝枝から山の雫が
無数の黄金色の枯葉が一斉に舞い落ちて来る
正直ここはわたしの場所だ
里へ帰れ、境界に入るなと
ぎりぎりぎりと幹深くに爪を立てる
真弓の赤い実がいま弾けた
山から三里下りて今また帰るが
見るがいい
ここかしこに生温かい糞をまき散らし
それでもと注意深く幹に樹液を流し
何モノかは鎌鼬かまいたちに真っ二つに切られ
悪意無き悪戯はすぐに悲しみになる
茸が時雨に大きくなるのを待ってゐるのは
なにもおまへたちだけではない
大きものの背が紅葉山に閉ざされて行く時
彼はまたチリーンと
熊鈴の音を背に聞いたのかどうか
倉石智證

