「ポツダム勧告」とは云うなれば

戦争当事者の日本に対する精神的、物理的解体を要求したものであった。

精神的とはつまり、

万世一系ノ天皇制のやうなものであり(象徴性に落ち着く)、

戦争責任の徹底的追及、断罪であり(勝者による「東京裁判」)、

戦争放棄、「憲法九条」、のやうなものであった。

物理的とは即武装解除であり、

財閥解体、華族、農村地主、体制翼賛的教育会の解体などである。

表向きは『ポツダム宣言』には

日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去すべし

と書かれている。

だが、終戦直後に於いて、GHQが直截的に目指したのは、

精神、肉体共に両方における骨抜きであったことは間違いない。


そして、一方戦後、米国が最も恐れたのは“共産主義ドミノ”でもあった。

終戦直後からかっての植民地国家も含めて、

社会主義国家、共産主義国家を目指す独立国家が叢生する。


1945年11月から46年8月ニュルンベルク裁判


45年2/4~11、米大統領のルーズベルト、英国のチャーチル、スターリンの3人が

ソ連のヤルタに集まり、大戦後の世界秩序のあり方について会談します。

そこで、ドイツ占領地域では選挙を実施し、国民代表の政府をつくると合意していました。

このヤルタ会談が破られたのです。

(池上彰13,1/28日経)


1946,3月ウェストミンスター大学でチャーチル

From Stettin in the Baltic to Trieste in the Adriatic,

an iron curtain has descended across the Continent.

Behind that line

lie all the capitals of the ancient states of Central and Eastern Europe.


1946,3「IMF」が創設された。

1946,6国際復興銀行(IBRD)業務開始=長期金融

■ブレトンウッズ会議は1944,7/22


1946,11/3「日本国憲法」公布

いわば、“生まれ”たのだ。

“平和と民主主義”という言葉は、

疲れ果て、困窮した多くの日本人にとって、とても大きな意味を持った。

根源的な問いが”敗戦直後は極めて苦しい時代でしたが、

多くの理想主義と根源的な問いが生まれた。

(ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」の著者)


GHQは当初組合の結成を推奨していたが───

1947,2,1“2.1ゼネスト”

GHQダグラス・マッカーサー指令により禁止

■ゼネスト中止宣言をする伊井委員長



1947,3,12“トルーマン・ドクトリン

トルーマンは一般教書演説で

イギリスに代わってギリシアおよびトルコの防衛を引き受けることを宣言した。

いわゆる「トルーマン・ドクトリン」であり、

全体主義と自由主義の二つの生活様式というマニ教的世界観が顕在化した。


1947,6/5“マーシャル・プラン

さらに6月5日にはハーヴァード大学の卒業式でジョージ・マーシャル国務長官

ヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、

西欧諸国への大規模援助を行った。

こうして戦後アメリカは、継続的にヨーロッパ大陸に関与することになり、

孤立主義から脱却することになった。


1947「GATT」


“冷戦”───

1947駐ソ連の米代理大使だったG・ケナン氏もこの状況を分析し、

「ソ連が勢力を世界中に広めるのを抑え込まなければいけない」と

「封じ込め政策」を本国に提言。

ケナン氏は帰国後、国務省の要職に就きました。

「冷戦」という言葉は、米国のジャーナリスト、W・リップマン氏が上梓した

著書の書名に使った(『冷戦―合衆国の外交政策研究』)ことから、

その表現が世界的に広まった。

(池上彰14,2/17日経)


1947ハンガリー共産圏に

(ネーメト・ミクローシュ元ハンガリー首相)

「自らの仕組みの行き詰まりはわかっていた。改革しかなかった。

ハンガリーでは戦後の47年に共産党が実権を握り、

複数政党制と市場経済を停止した。そこで自らの道を失った。

原点に戻る必要があると考えた」


1948,1/30ガンジー暗殺。


1948ビルマ独立(ビルマ共産党)

コーカン族は、17世紀ごろ中国から移住した漢族の末裔(まつえい)とされる少数民族だ。

1948年のミャンマー独立後、

コーカン族は中国共産党と友好関係にあったビルマ共産党に参加するなど

親中国路線を歩み、62年から88年まで続いた社会主義政権と対立した。


1948,1,6“反共の防壁”

米ロイヤル陸軍長官が日本を反共の防壁とする演説

■1948頃から占領政策が、

非軍事化から→「反共の防波堤」に。


1948「農業協同組合」発足

「利用者が所有し、管理し、利益を受ける協同組合原則」

■農地改革は1947~50にかけて。

“共産化”の防止。


1948,3経団連発足


1948,4,3~「済州島四三事件」

親米“傀儡”李承晩

→南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモ(米ソではない)

警察発砲→抗議の全島ゼネスト・島民の不満を背景に力を増していた

南朝鮮労働党が武装蜂起。

右翼青年団も送り込まれる“white terror=白色テロ”

■南朝鮮政府による処刑を待つ済州島民(島民の5人に1人にあたる6万人とも)


1949,3,7ドッジ“経済安定9原則実施”について声明

“ドッジライン”=インフレの「一挙安定論」

→超均衡財政

→財政の黒字化

→日銀による(国債・復興金融債の償還に充てられ)マネー吸収一方、

公共支出増大の主因だった復興金融金庫は、

1949,3で融資を停止した

■1948,9,11「集中排除法実施4原則」提示

財閥解体の事である。


1949,4,4NATO発足

North Atlantic Treaty Organization

盟主は米国である。