鑑真や空海・最澄以降、
「入唐求法」円仁慈覚大師以降、
最初の大陸の日本に対してのショックは
文永1274、そして弘安1281のそれぞれの蒙古襲来だったのは間違いない。
そのころ海のシルクロードはイスラム商人の方が先行していた。
1281弘安の役・元寇にイスラム商人関与か04,2,15日経
当時、インド洋と東シナ海を結ぶ海の交易を一手に握っていたイスラム商人が
「海のシルクロード」を日本に延ばす狙いで元寇にかかわった可能性が浮上してきた。
■イスラム商人が元と手を結ぶ。
1405~30(鄭和はイスラム教徒の出身だった)
明の永楽帝の命により、東南アジアからインド洋に派遣した大艦隊を指揮した。
鄭和(1371~1434)は宦官の最高位である太監だった。
永楽帝は域外に利益線を拡大、国威発揚・朝貢を促し、中華帝国を再現しようとした。
旅団は2万人を超える大規模なものだったと云ふ。
明らかに永楽帝の場合では、貿易促進が目的ではなく、
時には威嚇、分捕り経済があったようだ。
■“羅針盤”は中国が先行。
やっと沖縄(琉球)が登場する。
1429(尚巴志王)南山王他魯毎を滅ぼして三山を統一、
第一尚氏王統による琉球王国最初の統一王朝を成立させた。
居城は首里城。
死没1439
1434(ポルトガル・エンリケ航海王=大航海時代の先鞭を)
エンリケが派遣した船隊が“恐怖の”ボジャドール岬を超えたことであった。
そこから先は晦冥な海、迷信的な数々の恐怖、待ち伏せてゐる未知なる危険海域。
・領地獲得、
・市場拡大要求に、
・金の獲得も期待された。
1446(セジョン)李氏朝鮮第4代国王の世宗が、
「訓民正音」の名で公布した。
意味は「偉大なる(ハン)・文字(グル)」である。
ハングルの制定、儒教の理想とする王道政治を展開したことで、
朝鮮王朝最高の名君と評価されている。
女真族の土地への入植、版図を広げる。
■祖国とは「言語」である。
言葉を有し、歴史が始まる。
1458“万国津梁”
第六代琉球国中山王・尚泰久(しょう たいきゅう)が
戦乱の続いた国内の安定を願い建立した天尊廟(てんそんびょう)のために鋳造した
巨鐘(現在は沖縄県立博物館に保存)に銘記させた。
琉球国は、大明国(中国)を支えとし、日本と兄弟のよしみを結び、
船を万国の架け橋として貿易を行う。
ここに、沖縄の起点の一つがある。
1543,9,25“鉄砲伝来”
種子島にやってきた一隻の中国船に,ポルトガル人フランシスコ・ゼイモトが便乗していた。
彼の持っていた鉄砲に着目した時の島主種子島時堯(ときたか)は,
金2,000両を投じてこれを譲り受け,使用法を教わる。
鉄砲の威力を知った時堯は種子島在住の
八板金兵衛清貞に命じてさっそくその複製を作らせた。
→堺、根来に鉄砲鍛冶集団が。
■「必要は発明の母にして、戦争は必要の母であったのだ」
近代の文明とは15,4,19:日本経済新聞
1549,7,3ザビエル44歳、鹿児島に上陸(1506~52)
“トンスラ=修道士特有の頭頂部を剃り上げた髪型”
表情は夢見るようでいて、確固たる信念を感じさせる。
命がけの伝道が普遍的な共感を呼ぶ。17世紀初期
1609島津藩による琉球征伐
■占領ではなく服属
■琉球は清国への朝貢は続ける
■琉球は当時ポルトガルによって貿易を阻害され、国力は低下していた。
16世紀の後半に戦国大名として領国支配の強化を目指していた島津氏は、
琉球に対して島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求して、
琉球側がこれを拒否したことも。
1636~1912(ヌルハチ=女真族)とは清王朝の太祖である。
■清国(漢族ではない)が始まる。
1661『国姓爺合戦』
鄭成功自身はオランダを追い出し台湾占領の翌年(1662,6,23)疫病でなくなる(38歳)
俗称を国姓爺。
お母さんは日本人で平戸で生まれ、7歳まで過ごす。
明の復活を信じて清朝と戦うが、破れて台湾へ。
台湾鄭氏政権の祖
1840,6,28「阿片戦争」
林則徐は欽差大臣として活躍するが
1841,8「南京条約」
5港開門、賠償金、治外法権、関税自主権
■イギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵
(webより)
薩摩藩───
1840(家老・調所広郷)
“500万両の借金→250万両の貯えに”
放漫財政により藩政を引き継いだ時には500万両の借金が。
250年の無利子の分割払いを大阪の商人たちに強制。
・行政改革、
・農政改革、
・直轄地坊津や琉球を拠点として清との密貿易。
商人たちに密貿易の利益を優先させたりもした。
・徳之島などの砂糖の専売制
1840年にはむ250万両の貯えが藩の金蔵に。
幕末に薩摩藩が雄藩として強力な力を有していたのは、
調所広郷と琉球密貿易のお蔭かもしれない。
奇しくも1840はアヘン戦争の年でもあった。
1874,5“台湾出兵=琉球帰属問題”
西郷従道(かっての薩摩藩士)指揮3600人(マラリアで500人以上死亡)
1871の琉球島民遭難事件を
→琉球帰属問題に利用しようと。
そこで明治政府は、琉球人は日本国民であり、
生蕃(原住民)に対して清朝が処罰できないなら日本国がと。
■当時、琉球は日本と清の双方に朝貢する「両属」の国とされていた。
1875,9,20~(江華島事件)
書契、服制問題と華夷秩序。
日本国政府の洋装に対して、冊封体制下の李氏朝鮮は、「それは華夷秩序に反すると」。
日本軍艦は測量を兼ね示威運動。
■朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する
江華島(現仁川広域市江華郡)付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。
1876(日朝修好条規)の締結に伴い、
日本人街が建設された北西部の仁川市。
市中心部には、日本郵船や旧五十八銀行の仁川支店、
川端倉庫といった近代建築が並ぶ。
不平等条約「治外法権」「関税自主権」においても。
そして───
1879~96「琉球処分」
明治政府が派兵し琉球藩王を追放した。
首里城の正門前に並ぶ明治政府軍の兵士(石黒敬章氏所蔵)
(webより)
■「琉球処分」
裏書きに(左から)「那覇人」「沖縄賎女」「宮古島女」とある。
明治時代の琉球庶民の姿を写した3枚(石黒敬章氏所蔵)

■1879~96「琉球処分」琉球処分直後 生々しく 首里城などの写真 29枚見つかる :日本経済新聞
■1879“琉球仕置=国家消失の衝撃”
琉球藩廃止・沖縄県設置に関する裁可書
■琉球王国は1429年から1879年の450年間、沖縄本島を中心に存在した。
尚泰藩王は東京居住を命ぜられる。
この頃日本の軍事に対しての采配権は山縣有朋に有していた。
山縣の念頭には「普仏戦争」における結果論や、露国の脅威論もあって、
“主権線”という概念の外に“利益線”と云ふ概念を敷衍させた。
つまり、有体に云へば、本土の外に別な防衛線をしつらえる、
と云ふことだった。
日清戦争「台湾割譲」───
1895,4,17下関条約によって清朝から割譲された初めての植民地になる。
■膨湖島陥落3,30休戦協定
日本人とはいったい好戦的な民族なのだらうか。
約400年に、神功皇后による“三韓征伐”
1592など豊臣秀吉による朝鮮征討。
1879「琉球仕置き」
1895「台湾割譲」
1910「日韓併合」
・・・・・
今の沖縄の立場に続くものである。
琉球は“両属”の、しかし独立王朝であった。
およそ元の時代、明、清へと続く時代であっても、
琉球は、ほぼ四海平和な内に浮かんでいた島嶼たちであったに過ぎない。
それを、本土に併合されることによってより以上の喜ばしい事柄でもあったのだらうか。
そして、最初の沖縄戦───
1945,3,28“集団自決=329人”
米軍が渡嘉敷島に上陸した翌日、1945年3月28日の夕方だった。
9歳の田頭さんと両親、祖母、きょうだいら8人。
日没後、大雨の山中を夜通し歩いた。
日本軍の陣地に近い谷にたどり着くと、多くの住民が集まっていた
■“戦世(いくさゆ)を生きて”田頭(たがみ)澄子さん(80)








