1942「戦時海運管理令」が出され、民間船が軍に徴用されるようになると、
米軍は軍民の区別なく日本船を攻撃。
対馬丸事件までに、沖縄県に関係する船だけでも17隻が沈没した
「行くも残るも地獄」
地上戦1945,6/23まで9万4千人の民間人が犠牲になった:日本経済新聞
1944,8/21那覇港を出港。
子どもたちは「雪が見れる」「さくらBが見れる」と大騒ぎ。
1944,8,22,午後10時12分ごろ、
監視兵が左舷遠方に魚雷の雷跡数本を発見した。
米潜水艦ボーフィン号から発射された魚雷は3発が命中(4発との説もある)。
午後10時23分ごろ、奄美大島と屋久島の中間地点にある悪石島の西北地点で対馬丸は沈没した。
:日本経済新聞
■児童830人中400人余りは船倉に閉じ込められたまま
■天皇陛下はこれら学童と同じ齢ということだった。
■学童830人を含む約1660人が乗船していたと
→学童約800人を含む約1500人が犠牲に
1944,6,30「学童疎開促進要項」閣議決定
■実施する政府の方針は
1944年7月18日か19日に伝えられた。
1945,3/19「東京大空襲」天皇視察
1945,3,26(最初の米軍上陸)
慶良間諸島忠臣座間味島
「鉄の暴風」呼ばれた激烈な沖縄戦で、最初に米軍が上陸した地だった。
慶良間諸島忠臣座間味島。裏山の中腹には、
亡くなった島民・軍人1220人を祭る平和の塔があり、
すべての名が碑に刻まれている。
集団自決をした場所を示す石碑、戦隊全滅を記した慰霊碑もある
■沖縄戦で亡くなった人々の名前が刻まれた座間味島の石碑
1945,3,28“集団自決=329人”
米軍が渡嘉敷島に上陸した翌日、
1945年3月28日の夕方だった。
9歳の田頭さんと両親、祖母、きょうだいら8人。
日没後、大雨の山中を夜通し歩いた。日本軍の陣地に近い谷にたどり着くと、
多くの住民が集まっていた
■“戦世(いくさゆ)を生きて”田頭(たがみ)澄子さん(80)
(日本兵の頭部を煮るアメリカ兵(1944年)。
アメリカ兵は、日本兵戦死者の遺体を弄ぶ事があった。
これは日本でも反米意識を高めるために報じられ、
結果としてアメリカ軍への投降よりも死を選ぶ者を増やす事となった。
戦艦大和“大艦巨砲”───
1934(建造要求を提出)
ロンドン海軍軍縮条約の失効を1年後に控えた
1934(昭和9年)、失効後に米英海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗しうる艦船を
帝国海軍でも建造することが急務とみた軍令部は、
艦政本部に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した超大型戦艦の建造要求を出した
1937,11/4戦艦大和起工
1941,9/20呉海軍工廠で最終艤装中の大和(1941年9月20日)。右に空母鳳翔。
webより
2015,3,26(いずも)
海上自衛隊最大の艦船となるヘリコプター搭載護衛艦。
艦首から艦尾まで続く「全通甲板」をもつ護衛艦はこれまで2隻あった。
「いずも」は従来の「ひゅうが」型護衛艦に比べて全長が1.25倍で、人員は90人多い約470人、
潜水艦の警戒監視などに使うヘリコプターは5機増の9機まで運べる。」(25日、横浜市磯子区
■「いずも」全長=248㍍
■「大和」全長=263㍍
基準排水量6万5千トン。
開戦直後の41年12月、艦艇を建造する呉海軍工廠で世界最大の戦艦として完工した。
射程40キロを超える口径46センチの主砲を搭載したが、
海戦の主役は航空機に移り、性能を発揮する機会はなかった :日本経済新聞
■乗員3332人のうち生存者は276人。
沖縄の海岸で座礁して砲台の代わりになる「海上特攻」の命令を受け、
巡洋艦などとともに、山口県・徳山沖を出撃したが、
鹿児島県南西沖の東シナ海で米軍機の波状攻撃にさらされて沈没した。
戦艦大和が撃沈されたその日に
1945,4,7(鈴木貫太郎固辞したが)
「軍人が政治にかかわらないことを明治天皇に教えられ、
今日までモットーとしてまいりました」
組閣の大命が下った。
■1928昭和天皇は田中義一内閣“張作霖爆殺”を詰問。
当時、侍従長として天皇の側にゐたことの信頼関係
→1945,8,10“聖断”を仰ぎ
1945,4,29(奄美群島・鬼界島)に米軍の戦闘機グラマンなど74機が一帯を空襲。
兵員戦死2人、負傷1人の記録がある喜界町中里にある
戦闘指揮所跡を案内する野間昭夫さん=写真 小林裕幸
計呂麻島と同様に特攻艇を隠すため海岸近くに造られた格納壕、レーダー基地跡
1945,5義烈空挺隊員・祐輔さん享年23歳
1945,6,13「沖縄県民かく戦へり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」
と海軍次官宛てに電報を送ったことで知られる。
太平洋戦争末期の沖縄戦で旧海軍の大田実司令官ら幹部が自決
(沖縄県豊見城市の旧海軍司令部壕で慰霊祭15,6,13)
1945,6,22(御前会議)戦争終結検討を指示、
7月にはソ連を仲介した和平工作が進められており、終戦不可避の状況だった。
「御告文(おつげぶみ)」天皇は7月末から8月初めにかけて神前で戦勝を祈願した
■専門家は「この時期、天皇は終戦を決意していたはずなのに、なぜ戦勝祈願なのか謎」
と話している
■終戦決意、一方で戦勝祈願 :日本経済新聞
1945,6,23“学徒隊”「梯梧(でいご)」の元学徒、稲福マサ(87)
「砲撃で即死した友人の姿や、
行動を共にした日本軍が壕から住民を追い出したことなど、
思い出すのがつらく、家族にも話さなかった」
■負傷兵を看護した識名壕で当時の体験を語る元梯梧学徒の稲福マサさん(那覇市)15,6,19
県民の4人に1人が犠牲になったとされる沖縄戦。
沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校(いずれも当時)の学徒で編成された
「ひめゆり」の悲劇は、戦後の映画化などで広く知られる。
だが、ほかにも県立第二高等女学校(同)の「
白梅」など8女学校の学徒が傷病兵の看護などのため動員され、
3割超の190人以上が命を落とした :日本経済新聞
■“学徒動員=14~19歳”
1945年3月、日本軍は沖縄地上戦を前に兵力不足を補うため、
県内の14~19歳の学徒1800人以上を動員。
男子学徒からなる「鉄血勤皇隊」と「通信隊」は弾薬運搬や伝令役などを担った。
陸軍病院などに配属された女子学徒も軍と行動を共にした :日本経済新聞
■“学徒動員→980人以上犠牲”
「鉄の暴風」と呼ばれた激しい砲撃を受けた日本軍は、
県中部・首里の司令部を放棄し、南部の摩文仁に撤退。
組織的な戦闘が終了した同年6月23日までに多くの学徒隊は解散命令を出されたが、
男子は敵陣への突撃を命じられたり、女子は集団自決したりしたケースもあった。
全学徒の犠牲者は980人以上とされる :日本経済新聞
1945,6,23“島守=沖縄県知事”
「死地にあって常に住民本位の人だった」
(沖縄県知事島田叡)
軍が食糧を押さえ、県民は飢えに苦しんでいた。
島田は台湾に行き、県民用コメ450トンを買い付けてきた。
輸送船の撃沈が相次ぐ中での行動だった。
■“島守の塔=終焉の地摩文仁の丘”
沖縄戦の最後の激戦地となった摩文仁の丘に島守の塔と呼ばれる碑がある。
殉職した県庁職員の遺族らが建てた。
碑文には「沖縄県知事島田叡 終焉之(しゅうえんの)地」とあるが、最期を見た人はいない
編集委員 大石格 :日本経済新聞
1945,6沖縄戦で戦死
■日章旗の持ち主だったのは、警視庁千住署の巡査だった星藤二さん(当時28)。
1943年に召集され、4
5年6月、沖縄で戦死した。
遺品は68年を経て息子の忠孝さん(71)=東京都練馬区=に手渡される。
1945,6沖縄日本の「戦後七〇年」とは、
これら一人ひとりに経験された人生の集積であるはずだ。
沖縄に関して言うなら、ちょうど七〇年前(一九四五年)の三月下旬から、
激しい空襲、艦砲射撃、さらに、米軍が上陸しての地上戦が続いて、
戦没者総数は二〇万人余りに上る。
このうち沖縄県民の死者は、およそ九万四千人の民間人を含め、
一二万人余りである(沖縄県援護課による)。 黒川創 :日本経済新聞
“ありったけの地獄”
“県民4人に1人”
「Irei no Hi」
As we walked, he had been explaining about June 23, Ireinohi,
the day that Okinawans set aside to remember
and pray for their family members
and relatives who were killed during the Battle of Okinawa.



















