地球×林檎の積÷ことの地球のr(半径)の二乗=引力
一般には、アイザック・ニュートン(1642-1727)が
1665年に、地上の引力が月などに対しても同様に働いている可能性があることに気付いた、
とされている。
■ニュートンは万有引力の法則(逆2乗の法則)が成立することを発見した。これは、
『2つの物体の間には、物体の質量に比例し、
2物体間の距離の2乗に反比例する引力が作用する』と見なす法則である。
(ニュートンは成果を『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)にまとめあげ、それは
1687年に刊行された)。
ニュートンはリンゴが落ちることを発見したわけではない。
リンゴに対して働いている力が、
月や惑星に対しても働いているのでは、と着想した、ということなのである。
「月もたえず落ちている」と云うことなのだ。
1687名著「プリンキピア」
プリンキピアの執筆・続く17ヶ月の間、
ニュートンは、我々の多くが言うような意味ではほとんど生きていない状態だった。
食物、飲物、睡眠、身体、感情、こういったものは何一つ彼にはかかわりがなかった。
彼は自分の精神の内部だけに生きていた。
そこでは、定理、命題、証明、問題が、これらのみが彼の全存在に君臨していた。
それは心身を消耗してしまう過酷な仕事だった。
人間業でない仕事振りが、健康にどんな影響を与えるかなど、
お構いなしに休むことなしに自分の精神を駆り立て続けたのだった。
ニュートンは、基本的な原理の研究に没頭していたのである。
彼はその原理を、美しいほど明快な数学の言語で表現しようとしていた。
彼の精神は名著「プリンシピア」を生み出そうとしていたのだ。
(web久保教授)
■金融/保険
“コーヒーハウス”ロイド=情報ハウスを
ロンドンのテムズ川畔、タワー街にエドワード・ロイドが開店したのは、
1688年頃のことだった。
近在の住人たちが、しばしばコーヒーを飲みにやってきた。
座りこんで、おしゃべりに興じた。
ビジネスの話題でもりあがったという。有用な情報もあった。
なかでも海外との取引は、ニュースが頼りだ。
輸入原価の動向、海上での事故や事件。どれも、すぐに商売にひびく。
損害保険センターに───
ロンドン・ロイズ保険組合誕生事情のことである。
(樺山紘一・西洋史家12,3/4)
『日本永代蔵』は、井原西鶴作の浮世草子で、町人物の代表作の一つ。
貞享5年(1688年)に刊行された。
“伊勢商人”
16世紀に松阪は有数の木綿産地となり、
伊勢商人は全国に行商ネットワークを広げ、大消費地の江戸にこぞって進出。
江戸に約200軒あった呉服店のうち7割は伊勢出身者の店といわれた。
「人の気を見て商の上手は此(この)国の人也」と
井原西鶴は1688年に著した「日本永代蔵」で伊勢商人を評価している。
蒲生氏郷(1556~95年)が秀吉によって伊勢松阪の大名に抜てきされ、
郷里の近江日野の商人を招いて楽市楽座を奨励したのが伊勢商人の始まり。
その後全国を席巻した近江商人、伊勢商人は同根であり、
その合理的思考に共通点が多いのはこんな由来による。
(編集委員・安西巧12,1/12日経)
■統治/国家
1689“名誉革命”
1689年、ウィリアムはメアリーとともに、イギリスの共同統治者として国王に即位した。
ウィリアムはイギリス国王にしてオランダ共和国の総督であった。
議会は国王に「権利宣言」を承認させ、これを「権利章典」として発布した。
これによって、国王は議会の同意にもとづいてのみ統治することとなり、
イギリスの立憲君主制がここに成立した。
この革命は流血をともなわなかったとして、イギリス人はこれを「名誉革命」と言っている。
ロシアはまだ宗教的混迷の中にあった。
1682「火刑に処されるアヴァクーム」
モスクワのカザン聖堂に勤めていた際、
総主教ニーコン(英語版)の教会改革に強く反対し、
1653年シベリアに流刑された。
はじめツァーリのアレクセイはアヴァクームをモスクワに呼び返し和解させようとしたが、
彼は拒否し、逆にニーコンを異端と宣言した。
■正教異端派→レーニン
レーニンからスターリンへと引き継がれる彼らの共産主義狂気の側面には、
ある種の“密教的”宗教的熱心さが伴うのだ。
1683第二次ウィーン包囲
■ロシアは清国に国境線を屈辱的なまでに北方まで追い上げられた。
国境線をウラジオストックの南にまで戻すには
幕末の1858「愛琿アイグン条約」まで待たなければならない。
1689,5,16(元禄2年3月27日奥の細道へ)
そして日本では松尾芭蕉が
月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり……。
幻のちまたに泪(なみだ)をそそぎ、
『行く春や鳥啼(な)き魚の目は泪』
と千住まで見送りに来てくれた人達と別れを惜しんでゐる。
みちのくに向かう旅路で、世をいとう隠者への思いが胸中ににじんでくる。
「西行の和歌における、宗祇の連歌における。
雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり」(「老いの小文」序)
西行→芭蕉→子規
西行から500年、芭蕉。
「いま眼前に古人の心を閲(けみ)す」=忘却のかなたの記憶
芭蕉から200年、子規。
日本人のDNAが引き継がれてゆくのである。
たとえば今でも、日本人は旅に古の歌枕をトレースするときは、
西行の心のありようを探り、芭蕉を思い、人は我が心をそこに投じるようだ。
1687「生類憐みの令」(何度でも出された)
徳川綱吉
柳沢吉保(側用人=幕府の放漫経営)
桂昌院(綱吉生母=散財)
荻原重秀(勘定奉行=尻拭い)
荻生徂徠(1666~1728)
(儒学を政治学に近づけた学者として知られる)
気まぐれな専制君主であり、多分に衒学(げんがく)的な学問癖もあった綱吉は
徂徠を重宝し、また自分の寵臣柳沢吉保に仕官させるなどこの学者を大切にした。
この時期の徂徠はまだ幕府教学というべき朱子学を信奉していたが、
余人の追随を許さぬ特技があった。
「唐音」「華語」つまり当時の中国語の原音言語で儒学の古典が読めたのである。
儒学は超時代的な「永遠の」真理を解く教説ではなく、
どこまでも特定の歴史の中で生まれた独自の政治の学問である。
“stupid,it's echonomy !”ビル・クリントン
“貨幣は国家が造るもの。たとえ瓦礫(がれき)でも行うべし”荻原重秀=黒田東彦
徂徠が立ち向かったのは、当時としての「現代」の問題であった。
政治ではなく→経済の問題
年号でいえば元禄・宝永・正徳・享保年間、
将軍でいえば五代綱吉から八代吉宗まで、
貨幣インフレから緊縮財政のデフレ経済へと、
世の色調が対照的に入れ替わった多事な二十五年間が徂徠の活動期である。
徂徠の立ち位置は江戸封建社会が初めて商品経済に直面し、
貨幣の力が市場を制覇してゆく過程の入口であった。
徂徠学はあまりに原理論的すぎて現実の政治的要請の間尺に合わなかった。
時代はすでに八代将軍吉宗の治世になっていた。
米価の構造的低落に苦しみ、倹約政策の施行に熱心だったこの権力者にとっては、
貨幣経済こそが武家社会の真の敵であり、
その根本的な治作は「純粋封建制への回帰」であり、
武士の農村土着であるとする徂徠の提言は有難迷惑な意見ですらあった。
江戸時代初期───
(中世の終わり)「中世から近代へとシフト」する時代、
「覇権国家のシフト」も始まり、
「中世荘園制度(内側へ土地への投機、スペイン、イタリア)から
近代資本主義制度(外へ、イギリスやオランダ)へのシフト」も始まる。
精神面では「ローマカソリック教会の衰退と宗教革命(=精神革命)」も始まる。
(藤井まり子「アゴラ」)
1588英国艦隊がスペイン艦隊を撃破
シェークスピア「ヴェニスの商人」“金利的世界”
1600英国東インド会社
1602オランダ東インド会社
1611~21イタリアジェノバの超低金利
(イタリアの長期金利の趨勢的な低下の時代)
これは偶然でなく必然である。
ジェノバに金銀が殺到し、「投資の手段を見いだすのが困難」
なほど資本があり余っていた。(フェルナン・ブローデル)
その結果、最終利益÷投下資本で示される利潤率(利子率)が低下し、
イタリアやスペインが支配する中世荘園制社会の持続は困難になった。
(埼玉大学客員教授 水野和夫12,2/29日経)
たとえば───
イタリア半島の先までブドウ畑が広がっていた
=陸本位制→資本の利潤率➘
資本の利潤率の低下は→必然的に金利の低下➘を導く。
そして、それから・・・
地中海経済はある意味でのマネー本位制に陥っていた。
もはや働かないで“花見酒経済”に酔っ払っていたのだ。
北欧の交易と・実需の経済が資本ストックを優位にしていったわけだ。
今のドイツとギリシャにも似てゐる。


