■1215,6,15「マグナカルタ」(ジョン王制定)
■写本のうち、ボドリアンは4部を保有、3点は1217年製
■「マグナカルタは英国最大の輸出品だ」
1848「共産党宣言」マルクス
1848J・S・ミル「経済学原理」初版
およそその頃、我国の二宮尊徳は───
「道徳のない経済は、犯罪」
「経済のない道徳は、たわごと」
しかも、天は与り知らぬことだ、と云った。
天は自ら助くる者しか助けない。
マックス・ウェーバーの50年ちょっと前、
A・スミスの「道徳感情論」“公平な観察者”の約100近く後のことである。
儒教と、神仏の国でこれは画期的なことではないか。
そしておよそ20年後に明治維新となる。
ぼくは、革命とか、クーデターなどは多分
世界とのひずみ、かい離、時間軸のずれ、が主な原因ではないかと思っている。
元禄時代のころから明治維新まで日本の人口は約3300万人前後とそんなには変わっていない。
普通はGDPの推移と比例するはずである。
イギリスをはじめ世界が植民地主義へと侵攻していったのは、
産業革命以降の供給力の過剰と、それに追いつかない内需との差、
つまり、恒常的に高まる輸出圧力が背景にあった。
大航海時代の“分捕り経済”とは少し景色が変わって来ていたのである。
そして、日本では世界とのこの“乖離”が内国を回転させ、
幕末明治維新へと向かわせていったのだ。
産業革命以降、思想におけるヨーロッパ主義───
世界標準が決まりつつある。
そもそもこの世界というものを除外して、神の存在がありうるだろうか。
真に存在するものは過去でも未来でもなく、ただ現在だけである。
現生を楽しめ───。
神は永遠の問答のごとく、ロゴスの縁に人々をずっと惑わして来た。
そして、王様は戦争が好きだ。
イギリスのことなど《王・宗教と法と経済》───
1215「マグナカルタ」
そもそも政治権力と国民の契約において、
税はその主要部分をなしている。
マグナカルタ=イングランド王国においてジョン王により制定された憲章であり、
イングランド国王の権限の制限をその内容とする。
王権を制限するとともに、封建貴族の権利を認めた文書で、
のちに国王の専制から国民の自由を守るための典拠とされた。
民主主義の歴史上、最も重要な法律文書とされる。
そもそも政治権力と国民の契約において、
マグナカルタ(1215年6月15日に制定)も
米国の独立宣言
The Unanimous Declaration of the thirteen United States of America(1776,7/4)も、
税はその主要部分をなしている。
そして、増税を決めたときよりも、増税後の反発の方が大きいのが常だ。
(米国独立宣言)中でも、「全ての人間は平等に造られている」と唱え、
不可侵・不可譲の自然権として
「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文は、
アメリカ独立革命の理論的根拠を要約し、後の思想にも大きな影響を与えた。
1347~ペストの時代

1381ワットタイラーの乱。会見するリチャード2世とワット・タイラー

■1381ワットタイラーの乱。増税する暴君への反乱。
14世紀~の長期化した英仏100年戦争で赤字財政に苦しむイギリス国王が
「人頭税」などにより課税を強化したために農民が反乱を起こした。
■大航海時代前にアフリカまで航海した鄭和の像(雲南省昆陽の鄭和公園)
1429,4,29(ジャンヌ・ダルク)
イングランド連合軍に包囲されたオルレアンを救うべく、
ジャンヌ・ダルクを含めたフランス軍が市街に入城した。
■(100年戦争)伝統的に
1337年11月1日のエドワード3世によるフランスへの挑戦状送付から
1453年10月19日のボルドー陥落までの116年間の対立状態を指す。


■フランス軍はオルレアン防衛軍と合流し、
5月4日から7日にかけて次々と包囲砦を陥落させ、
8日にはイングランド連合軍を撤退させた。
このオルレアン解放が、今日、ジャンヌ・ダルクを救世主、あるいは聖女と称える出来事となっている。
マネーのこと───。
1432(コジモ=銀行業)を始める
1252(フィレンツェ)「フィオリーノ金貨」の発行=国際都市となる足がかりをつかみ、およそ180年後
1432コジモ・イル・ヴェッキオは銀行経営を世界的ビジネスとするのである。
ボッティチェリの「聖母子と洗礼者聖ヨハネ」(1477~80ころ)は
フィレンツェの銀行のローマ支店が贈り物として注文したとされ、
当時の銀行の一支店の活況を伝える作品である :日本経済新聞
アジアインフラ投資銀行(AIIB)設立のインパクト。
マネーを制するものは世界を制するの一理。
■1453,4ビザンティン帝国崩壊(メフムト2世)ビザンティン帝国を滅ぼす
1579メフムト2世像
グーテンベルク聖書のゴシック書体は歴史的傑作で、人は読み始める前から心を打たれたという。
このすぐれた情報メディアはもともと工業製品ではなく、
芸術作品として作られていたのである。
(写真は米ハンティントン・ライブラリー所蔵のもの
「聖ヴィセンテの祭壇画」製作年不詳
王家も市民も一丸となって海に打って出る覚悟がひしひしと。
1485リチャード3世
■リチャード3世“バラ戦争”
遺骨は歴史資料が伝える通り背骨の著しい湾曲があったほか、
背骨に矢が刺さり、頭蓋には刀によるとみられる損傷があり、
戦闘で死亡したことも確認された。13,2,5日経
■4日、英中部レスターで、リチャード3世の遺骨を映し出したテレビとその肖像画=ロイター
中米ハイチ沖の海底で2003年に見つかった沈没船が、
1492年に沈没したクリストファー・コロンブスの「サンタマリア号」だった可能性が強まったという。
アメリカの研究者らが5月13日に明らかにした。
調査チームによると、船は水深3~4.5メートルの暗礁近くで見つかり、
約35メートルというサンタ・マリア号の全長に合致するという。14,5,14FB
1492“レコンキスタ”
(718~1492)キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動(騎士団が前面に立つ)
■トマールのキリスト修道院。騎士たちは馬上のままで礼拝して、戦いに出て行った。
(レコンキスタ=国土回復運動)スペインもポルトガルも「レコンキスタ」から生まれた国である。
1517ルターの宗教改革

■ルターはローマ教会に抗議してヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の論題を打ちつけた。
これが、一般に宗教改革の始まりとされる。
1529トルコ第1次“ウィーン包囲”
■(スレイマン1世)肖像画は1579年(トプカプ宮殿博物館蔵)
1532「君主論」マキャヴェリ

■フォルトゥナ、運命というのは、人間の外にあって、
あるいは彼を助け、あるいは彼に襲いかかってくる、そういうものです。
人間はつねに運命に包み込まれていて、その外に出ることは絶対にできません。
■1532ルーカス・クラナッハ「支払い」
市長の経験もあり、宗教改革者ルターと親しかった画家は
このテーマを商品性というだけではなく、道徳の是正への使命感からも。
トマス・クロムウェルは鍛冶屋の息子から、ヘンリー8世の秘書官となった。
鍛冶屋の父の暴力を逃れ、ヨーロッパを放浪した彼は、
庶民の視点から、
世界を動かすのは宮殿ではなく会計所であり、
武力ではなく財力だと知っていた。
政治に大事なのは国王の権利でも古い道徳でもなく、
路上にあふれる貧民に仕事を授け、非効率な修道院を解体し、
国の富を増すことだと信じていた。
クロムウェルは国王に、イングランドにおける教会の頂点に立つことを進言する。
1534英国国教会
クロムウェルがストーリーを企図し実行する。
男子継承を強く望むヘンリー8世はローマ教皇庁と断絶し、
キャサリンの結婚は無効だと宣言、
1533,5アン・ブーリンと結婚する。
1534年に議会を通過させた首長令(国王至上法)によって、
イングランド国教会はローマ・カトリック教会から離脱し
国王ヘンリー8世は「信仰の擁護者」として国教会の長となった。
■修道院の解体と修道院の資産を王室へ移管することで、王権を強化する。
しかし、王の浮気は絶えない。
アン・ブーリンの凋落。
やがて、アン・ブーリンは断頭台にあがることに。
アン・ブーリンとは、エリザベス1世の母親である。
その相手は、何人もの女性を妻としたヘンリー8世。
王の腹心になり、王に取り入り、王の婚姻を手伝った
無慈悲で野心家で専制政治をためらうことなく推し進めたクロムウェルも、
やがて8世の激怒を買う羽目になる。
大陸から送られて来た肖像画より目の前に現れた
4度目の結婚相手がよほどにひどかったのだ。
抑えられてきた政敵(ノーフォーク公)たちがこの好機を逃すわけがなかった。
反逆罪で逮捕されたクロムウェルはロンドン塔に収監される。
1540年6月28日5番目の妻となるキャサリン・ハワード
(かつての妃アン・ブーリンの従妹にして、ノーフォーク公の姪)と結婚した。
その裏で同日、ひそかにクロムウェルが処刑されたのである。
ヘンリー8世はこのかつての片腕を処刑する際に、
わざと未経験の処刑人に担当させて苦痛を味わわせたという。
処刑後、クロムウェルの首はかつての政敵トマス・モア同様、
ロンドン市街に臨むロンドン橋に架けられた。
尚、この日国王と結婚したキャサリンはわずか1年半後に処刑され、
ヘンリー8世は6人目となる最後の妻キャサリン・パーを得ることとなる。
1543“地動説”
コペルニクスはポーランド生まれ、イタリアへ留学。
パドヴァ大学などで、先進の学問をおさめる。
だが、天文という専門領域など、まだ存在しない。
神学やら医学やら、諸学を身につけて帰国した。
教会領地の監督をつとめる知識人として、神学理論についても一家言。
経済学の経験知識からは、悪貨と良貨についてのグレーシャムの法則を予告。
どれもいわば、ルネサンス人としての発言だった。
地動説のみを取りあげてみれば、
のちにケプラーやニュートンによって検証されるべき仮説。
教会でもすぐには反響も禁圧もおこらなかった。
コペルニクスは、ずいぶん時間が経過してのち、これを著作にしたためる気分になった。「
天体の回転について」。
それが、はれて刊行された1543年、著者は70年の生涯を閉じようとしていた。
(樺山紘一・西洋史家12,7/8日経)
1543日本の種子島に、ポルトガル船が漂着する、その年にあたっている。
1549,7,3ザビエル(44歳)鹿児島に上陸
カール5世(Karl V., 1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、
ハプスブルク家出身のスペイン国王(在位:1516年 - 1556年)、
神聖ローマ皇帝(在位:1519年 - 1556年)。
スペイン王としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれる。
宗教改革期の動乱やオスマン帝国の圧迫といった困難な時代にあっても、
当時のヨーロッパから新大陸に広がる広大な領土をたくみに統治した有能な君主であったが、
晩年は長年の痛風と相次ぐ戦争に疲れて自ら退位し、修道院に隠棲した。
1555,9/25「アウクスブルクの和議」
ドイツにおけるルター派(プロテスタント)容認の決議
アウクスブルクの和議は、
神聖ローマ帝国のアウクスブルクで開催された帝国議会において
1555年9月25日になされた、ドイツにおけるルター派(プロテスタント)容認の決議である。
アウクスブルクの宗教和議ともいう。
これによりハプスブルク家のカトリック教会を介した帝国支配の野望は挫折するが、
一方ではカルヴァン派の信仰は認められず、
また個人の信仰も認められずに
信仰の選択は都市や領主が決定するものとした。
このことは将来に禍根を残し、三十年戦争の契機ともなった。
アウクスブルクの和議において、
領邦君主にカトリック、ルター派の宗教選択権が認められた。
ルター派を支持する諸侯が
カトリック教会・修道院の組織・財産を統制下におくことを事実上認める決定であり、
これをもって領邦教会体制が確立したとされる。
この後、自らの勢力を強めた領邦君主は、
徐々に領内の自由都市にも統制を強めて特権などを剥奪していくことになり、
領邦国家ごとの集権化が推進された。
イタリアやスペインが支配する中世荘園制社会の持続性に黄色信号が。
陸の利回りの逓減=中世荘園制社会
海を支配=海・交易の利回り(近代資本主義へ)
(埼玉大学客員教授 水野和夫12,2/29日経)
「陸と海の戦い」が歴史上最も激烈だったのは16~17世紀の
陸の帝国・スペインと海の国・オランダ、イギリスのたたかいだった。
それは、ちょうどイタリアの長期金利の趨勢的な低下の時代(1555~1621年)と重なる。
これは偶然でなく必然である。
ジェノバに金銀が殺到し、
「投資の手段を見いだすのが困難」なほど資本があり余っていた(フェルナン・ブローデル)。
その結果、最終利益÷投下資本で示される利潤率(利子率)が低下し、
イタリアやスペインが支配する中世荘園制社会の持続は困難になった。
1555年のアウクスブルクの和議で
ローマカトリック教会が支配する財産が
ルター派を支持する諸侯に奪取されたので、
スペインは新しい空間を求め大航海時代でイギリスやオランダと衝突する。
だがスペインは海の空間支配でイギリスに敗北した。
海を支配する発想は、イギリスにはあっても
陸地に執着したスペインには思いもよらなかった。
1655年、クロムウェルがジャマイカを占領して
イギリスの対スペイン勝利が決定的になり、
シュミットのいう「空間革命」が完成する。
(埼玉大学客員教授 水野和夫12,2/29日経)
1558「悪貨が良貨を駆逐する」
〈悪貨は良貨を駆逐する〉と約言されているグレシャムの法則は、
元来品位の劣る鋳貨が品位の優良な鋳貨と同時に流通に投ぜられるとき、
品位優良の鋳貨は退蔵されるか鋳潰されるか、
あるいは輸出されて姿を消し、悪貨のみが流通して
貨幣価値が低下して経済を混乱させることをいう。
1558年イギリスの商人兼金融業者でエリザベス女王の王室代理人であったグレシャムが、
女王への書簡のなかで貨幣の改鋳を進言したときにこの論旨を説明したと、
イギリスの経済学著マクラウドが述べたためにこの名前がついた。
また金銀複本位制のとられていた国
(たとえば19世紀後半のフランスや日本)などでは、
金銀の法定比価と市場比価あるいは国際比価との差違によって、
金貨が海外に流出した事実があるが、このような場合にもグレシャムの法則が適用される。
1569エリザベス女王、戴冠。
エリザベスは独身を選び、イギリスと結婚したことを宣言。
“女王のイメージ戦略”
王冠を戴き、宝珠と王杖を手にした女王が登場した瞬間。
ローマ神話の3女神のうち
結婚の女神ユーノーは駆け出し、左の靴を脱ぎ落とす。
長槍(やり)を手に兜(かぶと)をかぶる
学芸と戦争の女神ミネルヴァの手は驚きを表している。
バラ色の頬をした
美の女神ヴィーナスはキューピッドを引き寄せ困惑の表情。
額縁には次のような文字がラテン語で記されている。
「女王が姿を見せると3女神は圧倒された。
ユーノーは逃げ、ミネルヴァは押し黙り、ヴィーナスは恥辱のために顔を赤らめた」
1569「エリザベス1世と3女神」(ロイヤルコレクション蔵)
「聖母戦略」国民の心には母なるものへのあこがれがある。
丘にそびえ立つのは王家の象徴、ウィンザー城。
エリザベスは独身を選び、イギリスと結婚したことを宣言。
宗教や権威をめぐる争いで疲弊した国を統治する
最強の女王とのイメージを流布したのである。
エリザベスの戦略はその後、少しずつ変化する。
最も愛される存在になりたいと願う女王が行き着いたのは「聖母マリア」。
イギリス国教会にはカトリックのような聖母崇拝の伝統はないが、
国民の心には母なるものへのあこがれがある。
女王は聖母のシンボルである真珠やペリカン、不死鳥の装飾品で身を飾り、
美しい処女王として国民の心に入り込んだ。
晩年には虹をつかむ花嫁姿の肖像を描かせ、その権威を誇った。
(神奈川大学教授 石井美樹子12,11/8日経)
1571レパント沖海戦
キリスト教国側の勝利
レパント沖海戦=スペインとヴェネツィアとローマ教皇庁の合同艦隊に
オスマン帝国海軍が屈した事件。
ブローデルの『地中海』での「ある悲惨の終わり」の記述では、。
「キリスト教世界の現実的な劣等感に終止符が打たれ、
それに劣らず現実的なトルコの優位が終わりを告げたと見えてくる。
キリスト教国側の勝利は、非常に暗くなりそうな未来への道を遮断したのだ」(浜名優美訳)。
ブローデルは、もし合同艦隊が敗れていたなら、
ナポリやシチリアが占領されていたかもしれず、
北アフリカのムスリムがハプスブルク朝スペインに残る同胞を扇動した危険性もある
と述べている。(明治大学特任教授 山内昌之12,7/6日経)
1571年のレパントの海戦でオスマン帝国がスペインに敗北すると、状況は一変する。
オスマン帝国とヴェネツィアが東地中海の秩序を維持する力を失い、
海賊が跋扈する弱肉強食の時代となったのである。
本書は、マルタ騎士団に船や商品を略奪されたギリシア商人たちの裁判文書を基に、
彼らの生きた世界を再構成しようとしたものである。
マルタ騎士団の無慈悲な略奪活動はもちろんのこと、
彼らの略奪正当化のために利用された宗教的イデオロギー
「イスラーム教徒との永久戦争」、
そして、ギリシア商人たちの対抗・対応が詳細に検討されている。
海洋秩序、国家の役割、イデオロギーとしての宗教、
政治的環境と交易など、現代世界の諸問題を考察するための示唆に富んだ好著である。
Catholic Pirates and Greek Merchants「海賊と商人の地中海」モーリー・グリーン著
(14,7/1日経書評)
1598「ナントの勅令」
アンリ4世は、ナントの勅令を発布してカトリックとプロテスタントとの国内融和に努め、
40年近くにわたる戦争を終結させた。
戦後は戦争によって疲弊した国家の再建を行ったが、
1610年に狂信的なカトリック信者によって暗殺された。
モンテーニュ
主著『エセー Essais』(随想録)を1580年に刊行
アンリ4世即位後の1590年、顧問になるよう要請されたが、辞退した。
1592年に死去するまで『エセー』の加筆と改訂を生涯続けた。
モンテーニュは、
「残されたわずかな余生を、世間から離れてのんびりすごそう、
それ以外のことには関わるものかと心に誓い」(『エセー』「暇であることについて」)、
早々と裁判官をやめて田舎領主となり、「暇」を手に入れた。
無心に「キャベツなんかを植えているときに、死が迎えにきてくれればいい」
(「哲学することは、死に方を学ぶこと」)。
1588エリザベス女王「無敵艦隊」撃破
(メアリー1世)イングランドとアイルランドの女王(在位:1553年7月19日 - 1558年11月17日)。
(エリザベス1世)イングランドとアイルランドの女王(在位:1558年 - 1603年)。
熱心なカトリック信者であるメアリー1世は、父ヘンリー8世以来の宗教改革を覆し、
イングランドはローマ教皇を中心とするカトリックに復帰した。
メアリーはプロテスタントを迫害し、女性子供を含む約300人を処刑したため、
ブラッディ・メアリーと呼ばれた。
エリザベスはウィリアム・セシルをはじめとする有能な顧問団を得て統治を開始する。
エリザベスのモットーの一つは
「私は見る、そして語らない」("video et taceo" )であった。
この方策は彼女を政略結婚から救い、
また外交では成果の乏しい戦争にも消極的であったが、
1588年のスペイン無敵艦隊に対する勝利と彼女の名は永遠に結び付けられ、
英国史における最も偉大な勝利者として知られることになった。
資本効率は低下する
地中海経済と北欧系経済
「山という山が頂上まで畑だ」
欧州がひとつの経済圏に融合した17世紀前後。
域内の小麦の価格差は8倍から2倍前後に収束し、経済構造は激変した。
世界に活路を求めたオランダは東インド会社をつくり
グローバル化をテコに経済大国に成長していく。
一方、当時の超先進地域だったイタリアは内向きな発想から抜けきれず、
マネーを持て余した。
「山という山が頂上まで畑だ」。
仏思想家モンテーニュは、世界の潮流に背を向け
実入りの落ちた事業に入れ込む当時のイタリアへの違和感をこう書き残している。
(13,9/24日経)














