「薩長のテロ革命さえなかったならば、

日本が大東亜戦争に突入することはなかったであろう」

は本当か。

吉田松陰の先生は佐久間象山(開明派)

井伊直弼は開国派になる。

1853ベルりが来た。


■Samurai warriors, around 1850


外交は天皇家の専権事項、だと松陰一派は固く信じてゐる。

井伊直弼の懐刀、老中間部詮勝(あきかつ)が動き

朝廷から日米修好通商条約調印の勅許を得て来た。

孝明天皇は本質的に外国が嫌いである。

“詮勝暗殺計画”松陰一派。

原理主義の2派───

新撰組(佐幕派)。

尊王攘夷派はこの時点では薩長が中心である。

1859「安政の大獄吉田松陰享年30歳

1860「桜田門外の変水戸藩士らと井伊直弼


関ヶ原の戦い以降───

薩摩藩は“濃尾三川”の土木工事で幕府からいじめにいじめ抜かれた。

長州藩(毛利)は大きく減封されて普通の藩に追いやられた。

土佐藩は幕府の窮乏化策“城普請”によってやはりいじめ抜かれ、

一方、前任の長宗我部氏の一族郎党は郷士と云う身分に追い落とされた。

300年のパックストクガワーナの間に、それぞれの藩はそれぞれに変容を遂げる。


ナショナリズムの系譜───

400前後「三韓征伐神功皇后

“恙なきや”聖徳太子、隋の煬帝に親書を。

・・・すべてはここから始まったのだ。

632白村江の戦い

672壬申の乱のち天武天皇が「日本」の称号を使う。

1274文永の役

1281弘安の役

“神風”

1339「神皇正統記」北畠親房執筆を始める。

吉野朝(南朝)の正当性と、万世一系を顕かにする。

1592と1597秀吉の朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)

1657「大日本史」(水戸光圀)編纂を始める。

・幕府の血統の安全保障も兼ねる。

1787エカテリーナ女帝の寵臣ポチョムキンがクリミアの獲得、

軍港セバストーポリや商業都市オデッサの建設。

・ロシアの一貫した南進策。

1791エカチェリーナ2世と大黒屋光大夫

1791『海国兵談』(林子平)

「親もなし、妻なし、子なし板木なし、金もなけれど死にたくもなし」

1798幕府の蝦夷地巡察隊(近藤重蔵、最上徳内)

・国後、択捉を調査し、択捉島に「大日本恵登呂府」と書いた国土標柱を建て、

この年の暮に江戸に帰任。

1799~1800にかけて近藤重蔵は高田屋嘉兵衛らとともに再び国後島、択捉島に渡り、

本土の行政のしくみをとりいれた郷村制をしいたり、

漁場を開いたり、島々への航路を開いたりした。

1798本居宣長「古事記伝」

■国学の系譜

賀茂真淵本居宣長平田篤胤平田東助

1821「大日本沿海輿地全図」伊能忠敬没後完成

1825「異国船打払令」

1827「日本外史」(頼山陽)

・・・幕末へと続く累々たる若者たちの死。

1828“シーボルト事件”伊能図を見せられ、

このはこの禁制の地図の写しを持ち出したことにあった。

1832「尚歯(しょうし)会」

渡辺崋山/小関三英/高野長英/川路聖謨/江川英龍

1837「モリソン号事件」

1837「大潮平八郎の乱」

(1637「島原の乱」以来)

1838『戊戌夢物語』高野長英

シーボルトの鳴滝塾で蘭学を学ぶ。

1838「慎機論」渡辺崋山

1839,5月「蛮社の獄

「数年の後一変も仕(つかまつ)り候はば、悲しむ人もこれあるべきや。

極秘永訣此(かく)の如くに候。」1841,10/11夜、自刃


薩摩藩・調所広郷の場合

1828財政改革の責任者に(53歳)藩の借金総額は=500万両(約1兆円)

1838家老になる(琉球との密貿易等)。

1848調所広郷(ずしょひろさと)は密貿易の事実などが幕府に漏れるのを恐れて、

一身に責任を負って服毒自殺をする(73歳)

西郷隆盛が密偵のような役割をしている。

島津藩の他の藩に先んじた財政改革が、

その後の維新の回天の原動力になったのはいうまでもない。

名君島津斉彬の娘(養女)、篤姫徳川家定に嫁ぐ(1856,11月)。

1858,8/14家定急死

1858,8/24斉彬まで死去

1862女和宮、家茂に降嫁


1842高島秋帆───

長崎町年寄高島秋帆は、いち早く西洋砲術導入の必要性を唱え、

幕府もしだいに関心を示すようになる。

天保13年(1842)には、外国船は理由のいかんを問わずただちに打ち払うとした

異国船打払令(1837)を緩和し、

漂着した外国船には食料、薪水を給与して退去させることとした。

江川英龍水野忠邦より正式な幕命として高島秋帆への弟子入りを認められる。

以後は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育した。

高島秋帆の弟子門下に───

江川担庵(英龍)、佐久間象山、大鳥圭介、橋本佐内、桂小五郎など。


安積艮斎(あさかごんさい)1791~1860───

朱子学者だが洋学にも造詣が深く、

渡辺崋山、高野長英ら開明的な学者や幕臣が会した尚歯会にも出入りした。

1848年(嘉永元年)には『洋外紀略(ようがいきりゃく)』を著し、

世界史を啓蒙、海外貿易の必要性を説いている。

最初、佐藤一斎の学僕・門人となって、苦学した。

そして20歳から一斎の師、将軍家顧問格の学者だった

大学頭・林述斎の門下生となり朱子学を学んだ。

艮斎が開いた私塾「見山楼」(1814,24歳)の門人には

小栗上野介、吉田松陰、高杉晋作、木村芥舟(摂津守)、秋月悌次郎、

岩崎弥太郎、川路聖謨(かわじとしあきら)、栗本鋤雲、間崎哲馬、斎藤竹堂、

谷干城、清河八郎、福地源一郎、中村正直、権田直助など、

2282人の名前が門人帳に記されており、

幕末・明治の動乱期に活躍した人物に与えた影響は大きい。

(Web)

外交文書に携わる───

1853年のペリー来航時のアメリカからの国書の翻訳。

また、プチャーチンが持参したロシア国書に対する返書の起草などにも携わった。

佐藤一斎門下の同門には渡辺崋山佐久間象山らがいる。


《思想、経済、科学》

1831トクヴィル、アメリカに。

1832ベンサム「功利主義」

「最大多数個人の最大幸福」(the greatest happiness of the greatest number)

1835『アメリカの民主主義』(Democracy in America)トクヴィル

イギリス海軍測量船ビーグル号は1831年12月27日にプリマスを出航した。

1835ダーウィンはガラパゴス諸島に。

1838~林則徐アヘン戦争

1841漁の最中に遭難した中濱万次郎は、

捕鯨船のウィリアム・ホイットフィールド船長に救助された。

1843二宮尊徳“報徳主義”「至誠・勤労・分度・推譲」

二宮は天は人間のことなど考えていない、とみなしていた。

1845アイルランドPotato Famine、"Great Famine"(大飢饉)

100万人がイギリスや米国へ(ケネディ家など)

1848「共産党宣言」マルクス

1948J・S・ミル「経済学原理」初版

産業革命以降、思想におけるヨーロッパ主義───

世界標準が決まりつつある。