「Men and Women for Others, with Others」

(他者のために、他者とともに生きる)

1913上智大学

創立は1913年、現在キャンパスのある紀尾井の地に、

国内最初のカトリック系大学として開設しました。

本学の校名は、ギリシャ語で叡知(ソフィア)を意味しています。

本学の教育の精神は、キリスト教に基づく

「Men and Women for Others, with Others (他者のために、他者とともに生きる)」と

いう標語に象徴される。

他者に奉仕することによって自己実現を目指すのです。



1913フランツ・マルク「動物の運命」

マルクは世の中がいい方向に向かうために戦争が起こることを望んだ。

1914すぐに第1次大戦が始まろうとしていた。


「国定教科書」

明治時代の教科書は、最初は自由発行だった。

国定教科書は1904(明治37)年発行の修身、日本歴史などを手始めに他の教科に広がった。

高野辰之1909年に文部省小学校唱歌教科書編纂委員を嘱託された。

『故郷』は高野、岡野貞一らが文部省小学校唱歌教科書編纂委員だった

1914(大正3)年、6月、(尋常小学校唱歌)第6学年用の教材として掲載された。

『故郷』

兎(うさぎ)追いし かの山

/小鮒(こぶな)釣りし かの川

/夢は今も めぐりて

/忘れがたき 故郷(ふるさと)


/如何(いか)に在(い)ます 父母

/恙(つつが)なしや 友がき

/雨に風に つけても

/思い出(い)ずる 故郷


志(こころざし)を はたして

/いつの日にか 帰らん

/山は青き 故郷

/水は清き 故郷


「故郷に錦を飾る」出世主義は家族主義、大日本帝国主義につながるのかもしれない。


“娼婦および女工”

「身売り」human trafficking=人身売買

1872娼妓(しょうぎ)解放令

(井上亮・編集委員14,4/6日経)

海外から「人身売買」との批判を恐れた明治政府は、

1872(明治5)年に娼妓(しょうぎ)解放令を発した。

自由民権運動の闘士・中江兆民

大正デモクラシーの担い手・吉野作造ら開明的知識人でも

公娼制度廃止には反対で、娼婦の人権は視野の外にあった。

大正末から昭和初期にかけて、遊郭にいる公娼だけで約5万人

私娼(ししょう)も含めると15万人ともいわれ、

15~35歳の女性の76人に1人は売春に携わっていた(前掲『東京の下層社会』)。


1911(明治44)年に吉原、

翌年(1912)は大阪の難波新地と遊郭の大火が相次ぎ、

それを機に遊郭再建反対、廃娼運動が全国的な広がりを見せる。

だが、吉原は再建され、大阪でも代替地の天王寺付近に飛田遊郭が新設された。

廃娼運動が挫折したのは、日本が「売春立国」であるとともに、

「輸出国」でもあったためだ。

海外に売られていった娼婦「からゆきさん」は、

13(大正2)年総計2万2362人

海外在留邦人の約7.5%を占めていた。

行き先は欧州、南北アメリカ、シベリア、中国、東南アジアなど世界全域に及んでいた

(竹村民郎『廃娼運動』)。



1913竹内栖鳳「絵になる最初」



「洲崎遊郭」と救世軍

日本には1895,9月に上陸、

のちに「救世軍の山室か、山室の救世軍か」と評される山室軍平によって大きく発展する。

救世軍を世に知らしめたのが「廃娼(はいしょう)運動」だった。


1923(大正12)年9月1日関東大震災では焦熱地獄と化した吉原で

1000人近い娼婦が犠牲になった。

10月1日の追悼集会に参加した女性解放運動家の久布白(くぶしろ)落実

「東京には百十万という女性がいる。

その女性の貞操を守るために、六千人という女性が犠牲になっている」と訴えた。

しかし、女性に参政権がない時代の廃娼運動には限界があった。

女性のなかにも

「公娼制度を廃止すると良家の子女が汚されるから反対です」という意見があった。

娼婦の「解放」は

58(昭和33)4月1日の売春防止法完全施行を待たなければならなかった。


日本の近代で娼婦よりも悲惨な境遇といわれていたのが紡績工場の「女工」だった。

労働時間は1日11時間以上で、

繁忙期には昼夜ぶっ通しの18時間労働が強要された。

機械の前で立ちっぱなしの徹夜作業で、トイレに行く時間もなかったという。

環境劣悪な居住空間で、粗末な食事しか与えられないため、

病気になる女工が続出。

失明しても医者に診せない雇い主がいた。

実績が上がらないと人前で全裸にしたり、暴行するなど残酷な懲罰を受けた。

娼婦と同様の前借金や「社内預金」で退職を防ぐ工場もあった。


1900,1,24(小林ハル)生まれ


このころ河原に立ち喉が破れるほどの稽古をしている。

2005,4,25“最後の瞽女”逝去



■1900年からの米国の逆転、推移。

紛争が無かったことと、広大な交易圏(鉄道、船、市場)を有すること。

“プラグマティズムの倫理”が内燃機関としてイノベーションへと結びついた。

■「なぜ、英国は米国の後じんを拝することになってしまったのか」

19世紀後半に広まった鉄道。鉄道業は最初の切符を売るまでに膨大な投資を必要とする。

米国では、その建設資金をウォール街が提供し、リスクを多数の株主に分散させた。

しかし、レールを敷いて機関車を運び込んでも鉄道業は始まらない。

数千キロにおよぶ単線の線路上で列車を安全に運行しようと思えば、

経営管理が欠かせない。

(所有と経営の分離)。

1913,12,23FRB誕生



石橋湛山(たんざん)は

1912年には「小日本主義」を掲げて満州放棄を主張し、

一貫して軍縮を訴え軍部の帝国主義的拡張行動に警鐘を鳴らし続けた。

1930年代初めの金解禁政策に関して、

購買力平価説の立場から旧平価の割高性を指摘し、

平価を切り下げてから金解禁を実施すべきだとする新平価説を主張した。


1914渋沢栄一)日中経済界の提携のため中国訪問。

中国については、満州にかかわることを避け

揚子江中流域を中心に日本の中国における経済基盤を確保し、

貿易を通じて中国との経済的連携を深めるということに外交の主眼が置かれた

「渋沢栄一の国民外交」片桐庸夫著


小林一三(阪急総帥)

08年箕面有馬電気軌道 

09年沿線住宅地販売 

10年宝塚駅開業     

14年第1期初公演


1911「今日は帝劇、明日は三越」の広告コピー


沿線・中流“消費生活”“余暇文化”

14(大正3)年4月1日、1期生の少女16人で初公演が始まった。

このとき開催されていた「婚礼博覧会」の余興として行われた。

演目も桃太郎の鬼退治をテーマにした「ドンブラコ」など子供向けのものだったが、評判が良く、

4年後には帝国劇場で東京公演を行うまでに成長する。


“四通八達せざるべからず”

大隈重信

辰野金吾

「太陽が中心にして光線を八方に放つが如し、

鉄道も四通八達せざるべからず。

我が国鉄道の中心はこの停車場にほかならず」。

1914年(大正3年)に開業した東京駅。時の首相、大隈重信が式典で述べた祝辞である。

近代国家日本の建設を象徴する事業だった。

威風堂々の姿を示す東京駅を設計したのは辰野金吾。



1914,12,18東京駅の開業式が行われた(写真は当時の駅舎)。

式典には大隈重信首相をはじめ1500人が出席し、

首都の顔となる駅の完成を祝った。

駅舎は最先端技術を用いた鉄骨レンガ造り3階建てで、

日本銀行なども手掛けた辰野金吾が設計した。

日露戦争の戦勝ムードの盛り上がりで建築計画は大幅に拡充され、

工事は6年半に及ぶ大がかりなものとなった。


1914The Panama Canal

It must have been difficult to build.

建設は大変だっただろうね。

1914,8,15パナマ運河開通

1903,11,3(独立)パナマがコロンビアから独立

1903,11,18(パナマ運河条約)アメリカとパナマが運河条約を締結。

アメリカは運河地帯の「あたかも主権者として」の永久租借権を獲得。

アメリカによって開削され、

1999,12/31パナマに完全に返還される。

ついこの間のこと。米国のビヘイビア。

・・・・・米国と云う国益。