(国旗、国歌、遙拝、勅語)
南洋群島を統治した日本人の島民観は一貫して「未開」「野蛮」であり、
彼らを「皇国の良民」に教化することが目標とされた。
学校での言語は日本語で、徹底した同化教育が行われた。
毎朝の日本国旗掲揚、皇居遥拝(ようはい)、
君が代斉唱、紀元節などでの教育勅語朗読――。:井上亮・編集委員日本経済新聞
1933,2/20小林多喜二、築地署にて拷問死
「多喜二、わだしはお前を生んで、悪いことしたんだべか」母セキ
1933,3(結婚)原民喜が27歳、貞恵は21歳だった。
新婚旅行中、奈良・春日大社で(1933年、日本近代文学館提供)
1933,4(中島敦)タカとの間に長男の桓(たけし)が誕生し、
中島敦は23歳で父親になった。
1933,5「夫婦之契(ちぎり)の誓約書」谷崎潤一郎が松子に送った。
“女性崇拝の物語”「盲目物語」(32年)から「春琴抄」(33年)
「御気に召しますまで御いぢめ遊ばして下さいまし」(32年10月1日)
───紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ
1941,6(中島敦)この赴任中80通を超える手紙を書き送っている
ぼくの きんじよ の へや の おぢさんが この間
小さな さる を かつて 来た。
とほくの 島で 二えん で かつて来たんだつてさ。
てのひらの上に のる くらゐ の 大きさで、
だれにでもすぐ だいてもらひたがるんだ。
ポケットにはいるから、ポケット・マンキイと いふんだよ。
(マンキイといふのは、さるのこと)
たべもの は バナナさ。
かはいいよ
(中島敦)昭和15年に次男の格(のぼる)が生まれた。
教師として勤めながら小説を書いていた中島は、
昭和16(1941)年6月、ミクロネシアに旅立つ。
当時、南洋群島として日本の統治下にあった、
サイパン、テニアン、パラオ、トラックなどの島々である。
南洋庁から「国語編修書記」として雇われ、
島民の子供たちが公学校で使う国語教科書を作るための調査に赴いたのだ。
“零戦”
開発は1937年10月5日に海軍から提示された
「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発する。
(三菱重工・小牧南工場(愛知県豊山町)保存)三菱重工の五二型は
ミクロネシアのヤップ島に残っていた機体を修復したもの。
設計開発堀越二郎中心に(零戦)ゼロ戦が生まれた
三菱重工の工場で心神は開発された(三菱重工提供)
三菱では、前作である九六式艦上戦闘機に続いて
堀越二郎技師を設計主務者として開発に取り組んだ(格闘力、速度、航続距離)。
1940年7月24日A6M1零式一号艦上戦闘機一型が11型として正式採用された。
1939年(昭和14年)4月初飛行
■生産数:10,430機
■1939年3月に完成、4月には初飛行している。
1937,11,4戦艦大和起工
1934(建造要求を提出)
ロンドン海軍軍縮条約の失効を1年後に控えた1934(昭和9年)、
失効後に米英海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗しうる艦船を
帝国海軍でも建造することが急務とみた軍令部は、
艦政本部に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した
超大型戦艦の建造要求を出した。
古川ロッパ
「僕らは根本に於(おい)てむろん非戦論である。
それだのに、此(こ)うなって来ると、銃とって立ちたいような気分になって来る───
ここが僕らの大衆性なのではあるまいか。
ほんとにそう思う」(37年9月17日付)。
ロッパは戦争に立ち向かう大衆の側につく。
1900軍部大臣現役武官制(山縣有朋)
1904“きみ死にたまふことなかれ”与謝野晶子。
まだ、国家権力は言論の封殺までにはいかなかった。
1911大逆事件
検事の平沼騏一郎は「秋水が首魁に違いない」と逮捕を命じ後、死刑を求刑した。
第2次桂太郎内閣(←元老山縣有朋)
つまり長州閥が続いてゐる。
■大逆事件をきっかけに内務省に秘密警察、略称は特高警察、
特高(とっこう)が設置される。
“危険思想”の取り締まり。
特別高等警察を指揮した内務官僚には安倍源基や町村金五(町村信孝の父)などがいる。
1911,9『青鞜(せいとう)』発刊
“元始、女性は実に太陽であった。”
1911「ノラ」松井須磨子
『人形の家』と「カチューシャの唄」
「今日は帝劇、明日は三越」の広告コピー
1911「関税自主権」をようやく回復
明治維新からやっと国家の独立を果たしたのだ。
1911,10/10辛亥革命
日本は脱亜・脱欧の陥穽(かんせい)へ落ち込んだ。
“抗日”が台頭して来る。
父性と、母性がせめぎ合った大正時代。
父性は痕跡として
1912乃木将軍夫妻の殉死を以って一区切りが付いたかのやうだったが───
“帝国植民地主義”
西洋文明のように「その他」を圧倒した事例は世界史に見当たらない。
1500年の時点で、やがて世界に君臨する多くの帝国は地表面積の1割だけを占めていたが、
1913年になると西洋の11の帝国が陸地と人口の5分の3を支配し、
世界の経済生産高の4分の3あまりを支配することになった。
根底にあるのは───
■所有権
■契約主義
■株式会社“リミッテッド”
■分業
■科学
■プロテスタント的倫理
“「大日本主義乎小日本主義乎」”
『東洋経済新報』主幹に就任した三浦銕太郎のもとで『新報』は、
辛亥革命で動揺する中国への内政非干渉を主張した。
また同時期の大正政変では、軍拡路線の元凶である「帝国主義」的国策を否定し、
1913年に掲載された論説「大日本主義乎小日本主義乎」では、
軍国主義・専制主義・国家主義からなる「大日本主義」に対し
産業主義・自由主義・個人主義を3つの柱とする「小日本主義」が提唱された。
三浦はまた「満州放棄論」・「移民不要論」を主張し、
第一次世界大戦中には日本の青島占領と21ヵ条要求(1915)に反対した。
日本の植民地統治に関しては、
1910年代前半には軍国主義財政批判および保護貿易主義の側面から朝鮮政策を批判し、
1910年代半ば以降は植民地を本位とした全面的な政策批判を展開した。
webより
むろん渋沢栄一や、石橋湛山は小日本主義に与する。
GDPの源泉は
■資本(コスト)
■労働力(教育)
■生産性(資本装備)
雇用・賃金の源泉は生産性を元にする。
雇用は交易(貿易)を盛んにすることで、分業を促し、生産性が計られ、
おのずからそこに雇用(賃金)が生まれて来ることになる。
比較優位をいかに身内に起てて、生産性を磨き、公益水準を上げてゆくか。
経常収支の黒字化が図られれば、自国の経済の中で人々の生活が賄えられることになる。
植民地主義はつまるところ分捕り経済で、紀元前からのシステムに過ぎない。
社会主義運動が猖獗して来るのだ。
1914,3
カチューシャかわいや わかれのつらさ
/せめて淡雪とけぬ間と
/神に願いを(ララ) かけましょうか
1915「いのち短し 恋せよおとめ」(吉井勇作詩)




