わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった
藤山一郎(1911~1993)32歳か
1943年2月、慰問団はボルネオ・ジャワ方面の海軍将兵慰問のため船で横浜港を出発。
途中で寄港した高雄港では敵の潜水艦による魚雷攻撃を受け(かろうじて命中しなかった)、
藤山は初めて戦局が内地で宣伝されているよりも
はるかに緊迫したものであることを察知することになった。
3月にボルネオ島(カリマンタン島)バリクパパンに到着。
ボルネオ島のほかスラウェシ島・ティモール島など、周辺一帯を慰問に回った。
藤山は持ち歌や軍歌の他、地元の民謡を歌った。
海軍士官が作った詞に曲を付け、歌ったこともある(『サマリンダ小唄』)。
藤山は7月に予定されていた慰問を終え、帰国した。
藤山は帰国後すぐに海軍より再度南方慰問の要請を受け、
11月にスラウェシ島へ向けて出発した。
1945終戦、捕虜に。
1946年7月15日、藤山は、
復員輸送艦に改装された航空母艦・葛城に乗って帰国の途についた。
藤山は永井隆博士の死から8か月後の
1951,1/3日に行われた第1回NHK 紅白歌合戦に白組のキャプテンとして出場し、
『長崎の鐘』を歌った。
ローゼンストックはベルリン・フィルの次の主席指揮者と目され、
1932年の大晦日に「第九」を指揮。
ところが年が明けるとヒトラーが首相の座に就いた。
いよいよ身に危険が迫ったとき、
新交響楽団(42年に日本交響楽団と改称)が契約を申し入れたのだった。
成城学園合唱団「マタイ受難曲」───
奇跡ともいえる演奏活動があった。
1943年秋、学徒出陣が始まった直後、
11月にローゼンストック指揮、
日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)と演奏した「マタイ受難曲」である。
成城学園合唱団が歌った。
ユダヤ人であるローゼンストックも指揮活動が難しくなっていた。
なのに、キリストの受難を描いたバッハの3時間に及ぶ大曲に挑んだのである。
完全な編成としては、ほぼ日本初演。
しかも日本語に訳して歌った。
キリストがむち打たれ、磔になるまでを描く「マタイ受難曲」。
ローゼンストックはユダヤ人を、
女学生たちは戦争の犠牲になる友を、重ね合わせたのではないか。
(柴田巌・学校史研究家10,3/24日経)
“運命”
1943根岸英一(ノーベル化学賞)は哈爾浜からソウルに引っ越した。
終戦の2年前、小学校3年生のとき、
父の転勤で韓国のソウル市に引っ越した。
終戦をハルビンで迎えた日本人男性の多くがシベリアに抑留された歴史を振り返ると、
この転居は我が家にとって大きな節目だったと思う。
1934~36毛沢東「長征」
長征は、国民党軍に敗れた紅軍(中国共産党)が、
中華ソビエト共和国の中心地であった江西省瑞金を放棄し長征を敢行した。
延安に辿り着き生き延びていなければ、中華人民共和国の建国はなかった。

1942「整風運動」
1943国家主席に
革命根拠地の中で、毛沢東氏は自己の権力を確立させるため、
1942年には「整風運動」を発動します。
数千人の党員を処刑したのです。こうして
1943年5月、毛沢東氏は中国共産党中央委員会主席に就任しました。
現在は総書記ですが、当時は主席という呼び名でした。
(池上彰12,9/29日経)
1943,11/22「カイロ宣言」
第二次大戦中の1943年、
米国大統領ルーズベルト・英国首相チャーチル・中国総統蒋介石がカイロで会談し、
発表した宣言(中国代表は毛沢東「現中華人民共和国」ではなかったことに注意)。
日本の無条件降伏要求と、降伏後の日本領土の決定などを内容としたもので、
テヘラン会談・ヤルタ会談を経て、ポツダム宣言の基礎となった。
瀬戸内寂聴──北京
戦時中、瀬戸内は43年から足かけ4年間、北京で暮らした。
当時の夫は北京の大学で教師をしており、
終戦後もしばらく現地にとどまっていた。
主婦になった瀬戸内はその間、中国語を覚え、
地元の人たちとも親しく付き合っていた。
異国の町で1女をもうけ、7回も転居した。
居住歴のわりには、北京の地理に詳しいのもそのためである。
瀬戸内寂聴が1956年に発表した「女子大生・曲愛玲」は、
戦時下の北京を舞台にしている。
主人公の曲愛玲は山村みねという女性教授の教え子で、
同棲(どうせい)の相手でもある。
2人の愛のもつれは、
曲と恋人の陳という美男との関係を交差させながら描かれている。
一九四三年(昭和十八年)十月から北京で新婚生活を始めた時、
せっかく中国に来たのだからと、専ら中国の小説を読んだ。
古典の「紅楼夢」、現代作家の老舎(ラオシャー)の「駱駝祥子(ロートシャンズ)」や
巴金(パーチン)の「家(ジャア)」など。
当時老舎は四四歳、巴金は三八歳、私は二一歳であった。
老舎の小説はユーモアもあって面白く、
巴金のは、作者の生家がモデルの重厚な大作だった。
当時、二人とも日本軍に占領された北京にはいなかった。
(寂聴「奇縁まんだら」11,8/28日経)
1943太宰治
太宰治の小説「右大臣実朝」
「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。
人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」
小説は、戦火の激しくなる昭和18年(1943年)に出版された。
「滅びの明るさ」をいう実朝の低い声が、太宰の声と重なって、
日本の行く末を暗示するかのように響いてくる。
(歌人・佐伯裕子10,10/9日経)
“供出命令”
1942,7二宮金次郎像応召壮行会“供出”
戦中には外地にまで設置された金次郎像であるが、
多量に作られたため、金属供出運動においては
他の銅像に先立って次々と回収された。
しかしさすがに学校の銅像、供出に際しても
教育的配慮をなして国事に身を捧(ささ)げる皇国臣民を育てるべしと、
撤収時には除幕式さながらの壮行式を挙行し、撤収後の台座上に
「二宮尊徳先生銅像大東亜戦争ノタメ応召」の札が立てられた。
42年7月、神奈川県足柄上地方事務所で実施された
二宮金次郎像応召壮行会では、
14町村から回収された像にすべてたすきをかけ、
教師、児童立ち会いのもと、戦地に送り出した。
壮観といえようが、なんとも痛ましい情景である。
(姫路市立美術館学芸員 平瀬礼太13,12/18日経)
靖国神社大鳥居
鉄不足「戦力増強のため撤去」
高さ25メートルを誇る、この巨大な大鳥居。
1919年に完成した当時は、日本一の高さを誇り、
「空を突くよな大鳥居」と、人々に親しまれた。
実はこの大鳥居、1
1943年に撤去され、現在のものは2代目であるという。
靖国神社のパンフレットには、「長年の風雨に蝕まれて撤去した」と記されているが、
大鳥居の右手にある鉄板には「戦力増強のため撤去」と記されている。
1944年9月に福島県の供出命令が下った。
ファン=ドールンはオランダのお雇い外国人で、
猪苗代湖の水を安積(あさか)平野に導く疏水(そすい)計画の指導者であった。
1872年に来日し、各地の河川築港計画に参加、
1878年に安積疏水工事に関わった。
発展の立役者としてファン=ドールンの銅像が
1931年に建設される。しかし
1944年9月に福島県の供出命令が下った。
敵国のオランダ人であったことも影響していたという。
ここで安積疏水の理事長であった渡辺信任はとんでもない決断をする。
ファン=ドールンに尊敬の念を抱く地元民にとって供出は拒絶したいが、
国家方針には背けない。
であるなら盗まれたことにして、隠してしまえと。
夜中に銅像を降ろして山中に埋め、作業員は破格の賃金で口を封じた。
そうして戦後に掘り出して再建し、現在も同地に像は立つのである。
(姫路市立美術館学芸員 平瀬礼太13,12/17日経)
1943東京都に
東京府と東京市が合体して都になったのは戦時中の1943年。
国が東京を事実上の直轄地にして、市の税収を戦費に回す狙いがあった。
一方で、中身は違うが、東京市も都制の実現を求めていた。
他の市よりも権限を与えよ、という自治権拡大運動だった。
当時の東京府の人口の92%は東京市に集中し、
税収の97%は東京市からあがっていたので、府と市の二重行政の弊害がひどかった。
今の大阪をみると大阪市と堺市を合わせた人口は府全体の4割に過ぎない。
(中央大教授 佐々木信夫11,12/11日経)
“繰り上げ”
昭和18(1943)年の東大受験は8/1日から4日間だった。
戦雲暗く、高校卒業半年繰り上げによる異常現象である。
10月に入学する。だが、入学後間もない
12月に徴兵適齢引き下げが発令され、大学生活は一変する。
2年分の授業を1年余で済ませ、
2年目にはいると3年次のはずの各個研究が始まった。
小平邦彦助教授についた。
物理数学特論と相対性理論を講じる新進気鋭の30歳、
やがて数学のノーベル賞とされるフィールド賞に輝く。
2年目の44,12/9日、その日も理学部の屋上からB29が悠々と飛び去るのを見た。
(河竹登志夫・演劇研究家10,5/10「私の履歴書」)
一高(三重野康・元日銀総裁11,3/8日経)
3学年で1200人。一高は完全自治による全寮制度だった。
1943年(昭和18年)、私が3年生の時、全寮委員長に選ばれた。
このころ非常時の学制改革で3年が2年半になった。
私たち3年生は9月に繰り上げ卒業することになり、
大学入試まで半年しかない。
小池真理子父───
「プーシュキンを隠し持ちたる学徒兵を
見逃せし中尉の瞳を忘れず」
戦場という非常の場で、
「プーシュキン」を媒介として
視線だけでお互いの心を察知しあった一瞬を詠んだ一首。
作中の父が詠み、新聞歌壇に掲載されたとされる短歌である。
あとがきによると作者の父親が残した短歌だという。
「沈黙のひと」小池真理子著13,1/13日経時評に
安野光雄(11,2/15)
大切にしている本がある。
すっかり変色しぼろぼろになっている。
『戦没農民兵士の手紙』(岩手県農村文化懇談会編、岩波新書)である。
この本についてはいろいろ論争があったらしい。
わたしは戦争には反対だが、
学徒と農民を差別することにはもっと反対である。
徴兵猶予などと、だれが考え出したのだろう。
“戦争犯罪”
1943,11「モスクワ宣言」
第2次世界大戦中の残虐行為を戦争犯罪と指定し、
主にドイツ軍将兵とナチス党員がそれに該当とする明記。
“ナチ狩り”地の果てまで───
オーストリアは戦後、
「ヒトラー・ナチス政権の戦争犯罪はドイツ軍の責任であり、
戦争時にはわが国はドイツに併合されていた。
わが国はナチス政権の最初の犠牲国だ」と久しく主張してきた。
オーストリアにとって幸いだったことは、
「モスクワ宣言」(1943年11月)が
オーストリアをナチス政権の犠牲国と認定したことだ。
同宣言はルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、スターリン・ソ連首相の
3人によって公表された声明文で、
第2次世界大戦中の残虐行為を戦争犯罪と指定し、
主にドイツ軍将兵とナチス党員がそれに該当とする明記している。
オーストリアは1938年、ドイツに併合されたが、
「モスクワ宣言」で「オーストリア併合」は無効と宣言されたのだ。
オーストリアは「モスクワ宣言」を唯一の拠り所として
世界ユダヤ協会からの戦争責任の追及をかわしてきたが、
ランツ・フラ二ツキー首相
「オーストリアにもナチス戦争犯罪の責任がある」と───
ワルトハイム大統領(任期1986年7月~92年7月)の
戦争責任容疑問題が国際問題となり、
同大統領自身は戦争犯罪の関与を否定したが、
再選出馬を断念せざるを得なくなるなど、
世界ユダヤ協会や国際世論の圧力が高まっていった。
そこでフランツ・フラ二ツキー首相(任期1986,6~96,3)はイスラエルを訪問し、
「オーストリアにもナチス戦争犯罪の責任がある」と発言し、
ユダヤ人民族に初めて謝罪を表明した。
同発言はオーストリア・イスラエル両国関係を正常化に導いた
「歴史的な発言」として高く評価された。
オーストリアが「犠牲国」から「加害国の一国」(Mittaterschaft)」と
歴史の見直しを下した瞬間だったのだ。
「アンネの日記」
1942年6月12日十三歳の時、お父さんからの誕生日プレゼント
「自分でも不思議なのは
私がいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。
だって、どれもあまりに現実離れしすぎていて
到底実現しそうもない理想ですから。
にもかかわらず私はそれを待ち続けています。
なぜなら今でも信じているからです。
たとえ嫌なことばかりだとしても人間の本性はやっぱり善なのだと」
(1944年7月15日)
1944年3月25日───
「死んでしまった後も生き続ける仕事がしたい」と
日記に書いたアンネは、それを果たした。
1943ころ、アンネ・フランクの家族たちは苦しい日常を送ってゐる。
1943ナチスドイツ───
戦争の末期(43年秋以降)になると、恐怖と云う感情が街全体を支配してゆく。
燈火管制と配給生活、英国空軍の夜間爆撃
(戦争末期には米国空軍の昼間爆撃)
戦況の良い時には、ベルリン市民には平穏と落ち着きがあったのだが、
戦況の悪化とともにこの首都にも暴力の地肌が露呈してくる。
戦争の末期(43年秋以降)になると、恐怖と云う感情が街全体を支配してゆく。
ゲシュタポの拷問と暴力、
それにもめげず反ナチのリーフレットを配布する市民、
街には死体が氾濫し、戦争に萎える空気を、
著者は卑劣な密告、勇気ある「抵抗」など、
「人間」の行動を示すエピソードを通じて紹介する。
■ナチスが国民に信頼されたのは、
ドイツの名誉を復権させたことと、
39年からの戦争の拡大にあったとの指摘、
それが対ソ戦で崩れ、やがて凄まじい暴力の応酬を受けるさまは
人間の因果応報、葛藤図としか言いようがない。
(「戦時下のベルリン」ロジャー・ムーアハウス著)
《評》保坂正康13,2/3朝日新聞
“特高”
僕は15歳までの記憶で生きている。それ以降は偽物だ。
佐々木昭一郎1936,1/25~
父は早大から米仏に留学し、パリで日本の新聞社の記者になった。
(反戦記事を書いて)解雇された後は
満州(現中国東北部)に渡り、ほとんど家にいなかった。
1943年、父が帰ってきた小2の夏のことはよく覚えている。
自宅の庭に見知らぬ男が立っていた。
帽子を目深にかぶり、堂々とした体躯、特高だ。
外出するとつけてくる。
江の島で泳ぎ、父と2人で天丼を食べた。
翌日、父は私を連れて故郷の宮城へ向かった。
列車のドアに一番近い位置に座ると、
水兵が2人乗り込み、真後ろに座った。
桃売りが来て、動かない。
須賀川駅で父が桃をかじったとたんに血を吐いた。
駅には担架が用意されていた。
私は薬をのまされ、駅前旅館で目覚めた……。
(14,9/24日経)
「志願する者は今すぐ立て」。
佐賀県伊万里の中学生だった画家の池田龍雄氏(1928年生まれ)は、
ある日の1時間目、授業開始前に行っていた黙想中に、
教師が突然そう言うのを聞いた。
しばらく座が静まり、教師のいら立ちも伝わってくる。
とっさに立ち上がったのが級長の責任を感じていた池田氏だった。
「刹那の判断だった。お国のためという気持ちも強く、
いずれは行かなければならないと思っていた」
この年、同氏は14歳(1943か)。
帰宅後、両親に告げると困った顔はしたが、取り消しなさいと言える状況ではない。
佐世保で試験を受けた後、海軍航空兵となり、
16歳(1945)で特攻隊に編入された。
実際に茨城県の霞ケ浦航空隊では出撃命令も出た。
機体に爆弾を装着し、両親に残す毛髪と爪を茶封筒に入れた。
が、敵機動部隊が接近中との情報は誤報だと分かった。
突然はしごを外された。
虚脱状態が長く続いた。
国家や社会は自分とは無縁だと感じ、長いこと自分に閉じこもるようになった。
(宝玉正彦12,8/12日経)
“学徒出陣”
しのつく雨、銃を肩に行進する若者、学帽に学生服、ゲートル。
東条英機首相がカン高い声で檄(げき)をとばす。
「生等(せいら)もとより生還を期せず」と答辞が読み上げられ、
スタンドの女子学生から「海ゆかば」の大合唱が巻き起こって神宮の森に響いた。
「ゲニウス・ロキ」という言葉がある。
地霊を意味するラテン語だ。
転じて、その土地に宿る記憶、その土地ならではの雰囲気をさすようになった。
東京では、たとえば明治神宮外苑は
ゲニウス・ロキのひときわ濃くただよう場所だろう。
刻まれた記憶が、ふたつある。
ここはもちろん、1964年東京五輪の輝かしい舞台だった。
国立競技場に聖火が燃え、開会式では8000羽のハトが舞った。
しかしその21年前に、じつは同じ競技場のトラックを色彩なき隊列が進んでいった。
戦局しだいに悪化する
43年10月21日、徴兵猶予を解かれた大学生2万人以上が
出陣学徒壮行会に臨んだのだ。(13.10/19春秋)
わたしが一番きれいだったとき
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残して
皆発って行った。
「ゲニウス・ロキ」
重大な痕跡をなし崩しに消し去ろうとしている。
そして陸前高田は───
(友人、渡会氏の写真)
(20,3,6日経)“7割以上で”岩手県陸前高田市の中心部(2月8日)
▲総事業費1600億円。7割以上で活用決まらず。
故郷は微生物菌のごとくあらゆる時間軸を含めた生態系でなり立ってゐる。
それらを一生懸命お金を使って埋め尽くしてどうするのだ。
菌のごときはみな土の下に埋められてしまった。







