「ほんとうに人間はいいものかしら」

1943新見南吉「手袋を買いに」

「里に出でて手袋買ひし子狐の

童話のあはれ雪降るゆふべ」美智子妃皇后陛下

■母子の狐の「手袋を買いに」南吉の生前に計画され、

死の直後に刊行された童話集「牛をつないだ椿の木」(1943年)に収載された。・・・、

「ほんとうに人間はいいものかしら」と母さん狐がつぶやいて物語は終わる。

新見南吉(1913年7月30日 - 1943年3月22日)1932「ごんぎつね」

 

1942靉光「鳥」

1943ころ松本俊介「水を飲む子ども」


おぼつかなさ・・・

水を飲むとは生への本源的な行為だから、

それを主題にしたことの背景に時代への不安があったとしてもおかしくはない。

子どもの無垢(むく)な表情。

 

1943服部喜三「燈火管制」

灯火管制下、銃後の忠節を示す時局の・・・


1943藤田嗣治『アッツ島玉砕』

1943(藤田嗣治)青森での戦争画展に「アッツ島玉砕」を出品した。

日本の体制に付和雷同したのではなく

「現実的に生きる絵描きが、絵画の問題だけを考えて描いた」

“フジタのねじれ”───

20年代パリでの裸体画には日本画的な要素があり、

日本での戦争画には逆に欧州の歴史画的な要素がある。

小栗康平映画監督 15,2,9:日本経済新聞

 

チャン・ウソン(張遇聖)

1943年に描いた「画室」(リウム三星美術館蔵)

李氏朝鮮の“白”を感じる。

「この映画は父の私に宛てた手紙であったのだ!」

伊丹十三は後年、

万作脚本、稲垣浩監督「無法松の一生」(43年)を見直して気付く。

「この映画は父の私に宛てた手紙であったのだ!」

(「女たちよ!男たちよ!子供たちよ!」)。

軍人が病死し、美しい妻と気の弱い息子が残される。

「この息子に、男らしさを、勇気を、意志の強さを、

喧嘩(けんか)の仕方を教えてくれるのが松五郎であった」

(古賀重樹12,2/19日経)


1943,4/18山本五十六戦死

山本五十六長官機はラバウルを出発しバラレ(バラライ)島などを巡視する予定だった。

それを巡視先に伝えるラバウル13日発極秘電が米軍に解読され、

搭乗機は待ち伏せに遭った。

米国の記録は、日本の旧海軍が暗号使用のルールを踏み外し、

その結果、長官機撃墜を許したことを物語る。

旧海軍が使用した暗号は、暗号書のほかに乱数表を併用した。

5ケタの数字を無秩序に並べたもので、全体で10万個、数百ページに及ぶ。

半月から1カ月の間、特定のページの乱数を使ったら、

次に別のページを使うという具合にして解読を防ぐ。

ところが山本長官の巡視に関しては「使用期限」を過ぎた乱数が使われていた。

関係者は長官機が偶然、米軍機と遭遇したように言いつくろい、

長くこの事実を隠し続けた。

この体質は旧海軍に限ったものであろうか。



1942,2,17シンガポール制圧

■機関車、貸家、鉄路など膨大な資産を手に入れる。

だが、すでに怒涛のように攻めまくられている。

1943,3,30(戦争の前途は)

天皇木戸幸一内大臣

「戦争の前途の見通しは決して明るいものではない」との考えを述べる。 :日本経済新聞

 

1943,4,21国債広告

(昭和18年4月21日付『写真週報268号)=アジア歴史資料センター提供

1941発効(10年報国債券)満期を迎えた戦後の

51(同26)年にはインフレで実質価値が180分の1となって紙くず化した。


1943戦闘機「銀河」「月光」

第2次世界大戦中に日本海軍が開発した航空機「銀河」「月光」の設計図1万枚以上を、

国立科学博物館(東京)の鈴木一義・理工学研究部科学技術史グループ長が発見した。

図面には主翼や操縦室、計器などの部品の仕様が詳細に描かれている。

(10,10,18日経)

1938,12,4~1943,8,23(重慶爆撃)

計200回以上行われた。

当初は軍事施設を狙っていたが、対象は市街地へ広がる。

 

1943井上長三郎「漂流」


1943,2~藤山一郎がボルネオ・ジャワ方面慰問。

慰問に訪れた小スンダ列島周辺

 

1943桑原甲子男「一銭五厘たちの横丁」

約100の出征軍人たちの家族写真を。

1943松本竣介「鉄橋付近」

学徒動員の年である。

■花巻出身の宮澤賢治に「月夜のでんしんばしら」。

薄暮に浮かぶ人物らしき2つのシルエット。

印象深い二重重ねに思えてくる。

松本竣介(1912~48年)は東京生まれだが、岩手県の花巻と盛岡で育った。

 

1943やなせたかし(1919~)

中国の福州に出征、南東部を転々とした。


くしくも父が卒業旅行で巡った行程とほぼ同じ。

「父に呼ばれたんだな」と思った。

結局、本格的な戦闘は一度もないまま終戦を迎えた。

高知に戻ると昭和南海地震に遭った。

父は32歳で赴任先の中国で没(わたしは5歳)

父は上海の東亜同文書院で学んだ。

卒業記念で中国南東部を日数をかけて巡った。

土地の風土や光景を「班西江江浙」と題した旅行記にまとめている。

(11,8,1日経)

やなせさんは2013,10/13に亡くなられました。

(ジャンクロード・トリシェ前ECB総裁)

1943秋叔父はサヴォワでは皮革工場を営む母の弟、ジャン・ヴァンサンカルフール。

叔父は対ドイツ抵抗運動で、ナチスの捕虜となって

1943年秋にドイツ中部ブーヘンバルトの強制収容所に送られた。

45年8月まで2年近くを過ごした。

大半の囚人が亡くなった。

彼はV2ミサイルをつくる近くのドーラの地下工場へのトンネルを掘らされた。

夜に収容所で靴をなくすと、足から感染症にかかって死に至る。

1杯のスープが生死の境目になった。

 

1943独ソ戦(ケルチ海峡)

■(14,10,10日経)

ケルチ海峡(連絡橋)ロシア、クリミアへ橋建設 因縁の地、再び紛争の渦へ

2300億ルーブル(約6200億円)とされる建設費の膨張。

■第2次大戦で多くの地雷

1942,2/19シンガポール陥落

1942,5/18ビルマ全土を制圧

1942,6ミッドウェー海戦敗北

《泰緬鉄道建設》

1942,6タイ側から

1942,10ビルマ側から

1943,10/17接続


英米豪蘭=約6万1000人+現地“ロームシャ”=合計約20万人

“戦場に架ける橋”「クワイ河マーチ」が聞こえる。