「新しく 生まれ変わりて 一兵と
なりたまりしも 心淋しき」
1945,3,21早朝、軍服姿の私は日の丸と万歳三唱で見送られた。
■来日したボースと筆者(右)。
空襲で爆弾の破片が目に刺さり眼帯をしている。
太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった
1945年3月、17歳の時に詠んだ歌だ。
詩や文学の世界に浸り「おセンチ」と呼ばれていた少女が、
恐怖を振り払い「インド独立の志士」であろうと葛藤している。
あのころの自分を抱きしめたくなる。
私は28年、神戸で生まれた。
両親はインド人。
「希望」という意味のヒンディー語で「アシャ」と名付けられたが、
「朝子」と呼ばれて育った。
神戸の小学校を卒業後、東京に転居。
昭和高等女学校(現昭和女子大)2年の時、
インド独立運動の指導者チャンドラ・ボースが結成したインド国民軍に身を投じた。
冒頭の歌はその時のものだ。
父アナンド・サハイはボースの側近で23年から神戸に身を寄せていた。
当時、インドは英国の植民地。国民は圧政と搾取に苦しんでいた。
「非暴力・無抵抗主義」を掲げるマハトマ・ガンジーとたもとを分かち
武力闘争を掲げたボースの招請を父は画策。
偽装離婚した母をコルカタにいたボースの元に秘密裏に送り、訪日を促した。
戦時下の我が家は日本の家庭そのもの。
日本人と同じ配給を受け隣組にも参加した。
薄いおかゆをすすり、モンペをはいて登校。千人針を縫い、
家族で戦勝祈願の神社参りもした。
母はカレー用の豆や小麦粉を防空壕(ごう)に隠し、
多忙な父がたまに家にいると、祖国の料理をふるまった。
初めて彼に会った日、
私はインド式に礼を尽くしその足先に手を触れた。
これがいけなかった。
「我々は150年前から奴隷のように頭を下げているのに、まだ下げ続けるのか!
独立するまで誰にも頭を下げてはならない」と雷を落とされた。
この日から、妹との挨拶も国民軍の合言葉
「ジャイ・ヒンド(インド万歳)」になった。
私に出征を決意させたのは、
44年3月に始まった日本軍とインド国民軍による「インパール作戦」だ。
インド北東部で両軍が共闘し英軍攻略を目指した。
居ても立ってもいられず、私たち姉妹は入隊をボースに志願。
すると「花のような娘たちが戦えるのか」とからかう。
ムッとした私は
「私たちが国のために死ねるのを閣下は知らない」と言い返してしまった。
空襲の時は防空壕から日米の空中戦を眺めた。
日本の戦闘機が撃たれ、
操縦士が白いハンカチを振りながら散っていくのが見えた。
「祖国のためにあんな風に死ねたらいいね」と妹と話した。
結局、私だけ入隊を認められた。
45年3月21日早朝、軍服姿の私は日の丸と万歳三唱で見送られた。
母の顔を見れば涙があふれそうで目をそらし続けた。
「勝ってくるぞと勇ま~しく~」。
今も軍歌はそらんじている。
バンコクで念願のインド国民軍女性部隊へ入隊。
しかし、インパールから飢餓や感染症で壊滅状態となった
日本とインドの兵士が次々に戻ってくる。
訓練を終え少尉になった矢先、マラリアにかかってしまい、
病み上がりで終戦を迎えた。
日本が負けるなんて信じられなかった。
終戦後、インドで結婚。2児の母に───
私の夢は、蓮光寺(東京都杉並区)に安置されているボースの遺骨を
ガンジス川に流すことだ。
ボースは終戦直後、台湾での飛行機事故で落命。
遺骨はひそかに日本に運ばれた。
「インパール作戦」(牟田口廉也)中将司令官
ビルマ(現ミャンマー)側からのインド北東部のインパール攻略作戦。
険しい山岳地帯を進軍したが、制空権がなかったため食糧や武器の補給ができなかった。
大量の餓死者のほか、マラリアや赤痢による病死者が続出。
日本軍の退却路は死体が連なり「白骨街道」と呼ばれた。
■(webより)
■1944,3インパール作戦退却路から遠く、バングラデシュ、旧日本兵眠る謎
■そんな時に見たのが、「投降」を呼びかけた英国軍のビラ。
「『アイ・サレンダー(私は降伏します)』と言って出てくれば、腹いっぱい食事を与えると。
そりゃ心は揺れるさ」
■日本兵の墓碑を丁寧に磨くビルフレッド・ゴンサルゲスさん(バングラデシュ中部コミラ)
“東京ボーイズ”
日本軍と共闘したINA最高指揮官チャンドラ・ボースが
独立の旗手として選んだ士官候補生で、「東京ボーイズ」とも呼ばれた。
「南西アジアのインドの少年たちよ。母国独立のために日本に行こう」。
1942年、両親と住んでいた日本占領下のシンガポールで、
こんな新聞広告を見て応募した。
広告主は旧日本軍と協力して英国支配の排除を目指したボースが率いたINA。
選抜された14~17歳の45人が海路、
ベトナムやフィリピンを経由しひそかに日本に上陸したのは44年初頭だった。
東京・上北沢にあった「興亜同学院」で約半年間、
士官学校入学のための日本語教育や訓繰を受けた。
最近手記をまとめたカルマカルさんの記憶によると、担任は「キチセ(イ)」先生。
今も肌身離さず持つ写真には「棒倒し」に興じる色黒の少年らが写る。
年ごろの彼らが「天使」と呼び、恋心を抱いた看護師「オムラ」さんの姿もある。
元公務員のスクビル・シン・ニンドラさん(82)も東京ボーイズだった一人。
同学院から座間(神奈川県)の陸軍士官学校に進んだ。
「1回の食事は米飯1膳と大根や豆だけ。
いつも食べ物を探していた。
指導教官のウメダ大尉によく殴られたけれど、
『自国のために死ぬこと』の尊さを教わった」と語る。
「『ウミユカバ~』。今も軍歌は覚えてますよ」。
ニューデリー南部に住む元パイロットのバリンドラ・カルマカルさん(85)は
日本語の歌詞を今もそらんじる。
(13,6/9日経)
留学計画を進めたボースは、
英国からの独立には武装闘争が不可欠と唱え、
非暴力主義のマハトマ・ガンジーら穏健派と対立。
軟禁されていたインドを41年に脱出、ソ連やドイツに支援を求めたが冷遇された。
潜水艦を乗り継ぎ、大東亜共栄圏を目指し米英に宣戦布告していた日本に潜入。
日本からINAを指揮し、少年たちを招いた。
だが、ボースの「インドの少年にサムライ魂をたたき込む」という夢は
日本の降伏であっけない幕切れを迎えた。
陸軍航空士官学校(埼玉県)に進んでいたカルマカルさんは、
終戦の数日前、下士官に部屋に呼ばれた。
上半身裸で正座をし「日本は降伏する。介錯(かいしゃく)を頼む」と涙する下士官。
とっさに短刀と日本刀を奪って廊下に放り捨て、
思いとどまるよう仲間と懇願したという。
父親代わりのボースは終戦直後、台湾での飛行機事故で落命。
45人は母国から遠く離れた地に取り残された。
身柄は米軍によりフィリピン・マニラに送られ、英軍に引き渡された。
香港の刑務所に1カ月収容され、罪人のような扱いに耐え、
母国に送還され自由の身になったのは翌年だった。
(ニューデリー=岩城聡13,6/9日経)
インド北東部の都市インパール攻略作戦には
英国からの独立を掲げたインド国民軍数千人も参加した。
あわせてチャンドラ・ボースの自由インド仮政府支援のため、
インド領内における足場を確保することを目的として計画されたりもした。
しかし、しだいに守勢に回り、
7月には退却命令が下され、
飢えと病気により多数の将兵を失った悲惨な退却戦が開始される
(死傷者数7万2000人)。
第15軍及び第18師団(師団長:牟田口廉也中将は盧溝橋事件にも関与。
ともあれ“インパール”は無謀な作戦の代名詞とされ、悲惨な結末を迎えた。
敗戦への道筋───
1943年4月18日
山本五十六元帥海軍大将戦死
1943,11/22カイロ宣言
第二次大戦中の1943年、
米国大統領ルーズベルト・英国首相チャーチル・中国総統蒋介石が
カイロで会談し、発表した宣言。
日本の無条件降伏要求と、降伏後の日本領土の決定などを内容としたもので、
テヘラン会談・ヤルタ会談を経て、ポツダム宣言の基礎となった。
カイロ
→ブレトンウッズ
→ヤルタ
→ポツダム
(東京裁判)
→サンフランシスコ
・・・右同盟国ノ目的ハ
日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ
日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト
並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ
中華民国ニ返還スルコトニ在リ
/日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ
/前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ
軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
/右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ
日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ
(webより)
ヤルタ、ポツダムの基礎になってゐる。
1943,秋「モスクワ宣言」
第2次世界大戦期のヨーロッパ各地において、
ナチ・ドイツは、「最終的解決」と称して、
実に6百万人のユダヤ人、
さらに2百万人ものロシア人やロマなどを集団殺戮(さつりく)した。
このナチの非人間的な残虐行為に対して連合国側は、
1943年秋、戦争犯罪人を「地の果てまで」追及するというモスクワ宣言を発表した。
“ナチ狩り”が始まった。
ノルマンディー上陸作戦Battle of Normandy
1944年6月6日払暁、英・米・カナダを含む12か国の連合軍が、
ドイツ占領下のノルマンディに怒涛のような総攻撃を敢行する。
ドイツ敗戦の序章が始まった。
ヒトラーと入魂(じっこん)の間柄のドイツ大使大島中将───
日本の親独派の最先鋒の大島浩駐独大使。
大島は陸軍中央と提携、駐ドイツ大使であった東郷茂徳を退け、
1938年(昭和13年)、自らが駐独大使に就任した。
(敗戦へのインテリジェンスが全く機能していない)
1944,7/7サイパン陥落
1944,7/22ブレトンウッズ会議
連合国44 カ国が米国ニューハンプシャー州のブレトンウッズで会議を開き、
第2次大戦後の新たな 国際経済システムに関する協定を結んだ。
国際通貨基金(IMF)と世界銀行の創設が柱となる。
1944,8/26「パリ解放」
百万人以上ものパリ市民が街路を埋め尽くしたドゴールの凱旋パレード。
1943カイロ宣言から、ここまで、
すでに連合国側は勝利を確信し、
そのロードマップに従って着々と歩を進めてゐる。
日本が“転進”と云ふ意味不明な言説を使ったのは
ガダルカナル(瀬島龍三=伊藤忠顧問に)の「転進」以来のことである。
大本営は政府から独立し、参謀本部と軍令部はお互いに手元を晦くし、
手柄を競い合うあまり、メディア、国民に対して次第に隠ぺいの体質に窯変していった。



