■1944靉光「自画像」
戦時下の状況から、戦争画を描く事を当局より迫られ
『わしにゃあ、戦争画は(よう)描けん。
どがあしたら、ええんかい』
と泣くようにいったという。
この年大陸へ応召。
(1907,6,24~46,1,19)
上海で病没38歳
彼の作品のほとんどがヒロシマの原爆のため消失。
1945,3「どうも日本は負けるらしい}
(山田昭男1931上海生まれ。)
おやじは三井物産と取引があったんで、
45年3月には三井から「どうも日本は負けるらしい」と、情報を得た。
そこで自分は残って、おふくろと兄弟の合計4人の家族を、
三井が仕立てた帰国列車に頼み込んで乗せた。
海上は危険だいうんで、上海から、
南京、北京、新京(現長春)、京城(現ソウル)などを経由する
20日間ノンストップの逃避行やった。
商社の力は偉大。
止めた通常列車をすべて追い越し、
給水などの臨時停車では各駅で三井社員が食事を差し入れてくれた。
釜山から下関は船で移動。
日本に到着したら、とりあえず、おやじの実家があった岐阜県大垣市に向かった。
上海では食べ物に不自由したことなかったのに、
大垣で暮らすようになったら食べ物にも事欠いて、
一家空腹の毎日だったのにはショックだった。
旧制大垣中学校の2年生に編入、
学徒動員で三菱の航空エンジン工場で働いているところで終戦を迎えた
(未来工業創業者 山田昭男13,2/14日経)
偏奇館炎上
(永井荷風66歳)
二十六年間住みなれた偏奇館を空襲で焼失している。
若き日にはるかフランスの地で買い求めた洋書をはじめ、
愛蔵の書はすべて灰に帰した。
偏奇館炎上のさまを描く三月九日の『断腸亭日乗』は壮絶である。
せめて燃えつきる館の姿を眼に焼きつけようと、逃げる足をとめた荷風は記す。
「下弦の繊月(せんげつ)凄然として愛宕山の方に昇るを見る」。
炎に染まる明け方の空、さえわたる三日月がかかっている。
凄絶なる月。
ときに荷風六十六歳。
空襲で城と蔵書を失った文人は、すべてを喪失したにもひとしかった。
茫々(ぼうぼう)と広がる焦土に、美しく、悲哀の月がかかる……。
(山田登世子・仏文学者12,10/28日経)
「眼路の限り続いてゐる」
(山田風太郎)
3月10日の東京大空襲を日記でこうつづっている。
――B29約百五十機、夜間襲撃。
(中略)あらゆる人間の生活の背景をなす『物』の姿が、
ことごとく灰となり、煙となり、なおまだチロチロと燃えつつ、
横たわり、投げ出され、ひっくり返って、
眼路の限りつづいている――
■1945,3,10に撮影された、当時の浅草区役所付近の焼け跡=石川光陽さん撮影
警視庁の専属写真家だった石川光陽さん
予め、「狙われて」いた・・・
1905,3/10、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、
奉天(
「陸軍記念日」となった。
「国民の生命、財産、幸福の追求権など・・・切れ目なく守り、
日本の領土、領空、領海を断固として守り抜く」
時代錯誤だ。
自公で“粛々”と集団的自衛権行使の為の法整備が進められている。
予め、申し上げたいことではあるが、
自分たちは、かうして歯止めのない戦争を遂行した、
怯懦、優柔不断なうわべだけの政府指導者たちと、
全く同じ種族であることを、常に自覚しておいてもらいたい。
どの国家にも憲法があって、その憲法によって国家を恣意する権力者たちが
制約されるのだから。
1945,2/4~11ヤルタ協定が結ばれた時、「ソ連が参戦する」という情報を
スウェーデン駐在武官の小野寺信少将がつかみ、
極秘電報を送っている。
インテリジェンスがどのように大事であるかは
上記の「日本は負けるらしい」───、
山田昭男さんの手記でも明らかである。
1945,2/13ドレスデンの爆撃。
1945,1米軍のリンガエン上陸と、その後のフィリピン戦線。
1945,2/19~の硫黄島の戦い。
1945,2/25大雪の中、東京は神田界隈や、皇居へも盲爆。
今井敬(1929,12/23~)
新日本製鐵(現・新日鐵住金)相談役名誉会長
1945,3当時15歳
大森に帰りしばらくすると海軍兵学校の合格通知が来た。
9万人ぐらい志願して約4000人が受かったという。
都立一中(府から都へ)からは30人が合格した。
このころ母の体はすでにがんに冒され、
築地の海軍病院(今は国立がん研究センター)で闘病生活を送っていた。
昭和20年(1945年)、戦局はいよいよ絶望的で、
3月10日に東京大空襲があり、
下町を中心に一般市民約10万人が命を落としたといわれる。
翌11日に母を見舞うと、普段気丈な人が
「怖かった」と珍しく口に出した。
15日に母は亡くなった。
「私の履歴書」
(お母さん子だった)その母を15歳にして失い、
軍隊に行くのに、思い残すことは何もないという気持ちになった。
国技館近くにある横網町公園から、建設中のスカイツリーが見上げられる。
被服廠(しょう)跡とも呼ばれ、関東大震災の際、
最も多くの犠牲者を出したこの公園内にある慰霊堂には、
関東大震災の身元不明の犠牲者の遺骨、5万8千体余りのほかに、
東京での空襲の身元不明犠牲者の遺骨10万5千人、
合計16万3千人の骨が納骨されている。
(城戸久枝・ノンフィクションライター13,3/26日経)
都の火葬場の能力は1日500体に過ぎず、棺は1万人分しかなかった。
1951「失業対策時報」
錦糸公園での改葬で、日雇い労働者50~60人が、
「どろどろになった土を掻き分けて、人骨を大きな寝棺に拾い上げている」
とある。
(「防空法」)
ある程度予想されたにもかかわらず、農村や郊外へと避難した住民は少なかった。
消火活動に従事させるため避難を事実上禁止し、
違反すれば懲役か罰金を科していたのだ。
法律にこうした決まりが盛り込まれたのは東京大空襲の4年前。
真珠湾攻撃と同じ年(1941)だ。
「爆弾にあたって死傷する者は極めて少ない」といった手引書も出ていた。
同書によれば、戦意喪失を避ける目的も大きかった。
空襲を受け郊外に逃げたら、食料配給を止める
と言われて街に戻り、次の空襲で家族を失う。
そんな体験をした人もいた。
45,3/14日比谷公会堂で開催された日響定期公演
山田耕筰、近衛秀麿のあとに続く、ローゼンストック門下の二人の指揮者、
山田一雄(1912~91年)と渡邉暁雄(1919~90年)は、好対照をなす存在だった。
東京大空襲からわずか4日後の
45年3月14日には、辛くも焼け残った日比谷公会堂で開催された
日響定期公演の指揮台に立つ。
「あたり一面焦土と化し、食べ物も何もない極限の状態においてすら、
心から音楽を愛し求める人々が、万難を排し、
熱気をもって会場に来てくれた」ことに心打たれた山田は、
平和な時代となると憑(つ)かれたように
マーラーの「復活」や「千人の交響曲」、
ストラヴィンスキーの「春の祭典」など近現代の大曲を、
手兵である日響と次々に日本初演した。
(岩野裕一・音楽ジャーナリスト14,7/24)
■重慶爆撃
1938,12,4~(重慶爆撃)1943,8,23計200回以上行われた。
当初は軍事施設を狙っていたが、対象は市街地へ広がる。
■重慶市(人口3千万人)代表的な繁華街・解放碑のすぐそばに、
明朝時代から続く「十八梯」という住宅密集地が広がる。
高層ビルに囲まれた斜面に沿って、廃屋と見まがう古い家屋が立ち並ぶ。
戦時中には日本軍の空襲で多くの死者が出た。
重慶市の中心部に位置する老朽住宅地域「十八梯」は再開発のメドがまだ立たない。
1944,6/16~中国から出撃したB29爆撃機が日本本土
(現北九州市)を爆撃。
米軍は日本家屋を焼くのに適したM69焼夷弾を開発し、
1943年には20都市への焼夷弾攻撃の方法や有効性を検討。
1944,5には主要都市を
1945,3に攻撃する準備を始めていたと云う。
3/10東京大空襲に続いて、
3/12名古屋
3/13大阪
3/17神戸
その後地方都市に拡大していった。
3/19天皇陛下焼け跡を視察
死者は東京23区や全国約530市町村で
約20万3000人にのぼる。
(広島、長崎、沖縄を除く)






