“国の為重きつとめを果たし得で
矢弾尽き果て散るぞ悲しき”→悔しきに
栗林中将(最後の打電)
旧日本軍が最後の組織的な攻撃を前に
大本営宛ての電報を打ったとみられる無線機=共同
(遺骨収容中に発見12,8,19)
1945,1/9連合軍、ルソン島リンガエン湾に上陸
1945,2/4~11「ヤルタ会談」
1945,2/13~15ドレスデン空爆
1945,1/9~マニラ市街戦3/3終了
1945,2,/19~3/26硫黄島の戦いBattle of Iwo Jima,
1945,345,3アウンサン将軍「対日武装蜂起」
フィリピン───
1898アギナルド将軍(フィリピン独立戦争)
1901フィリピン、アメリカの植民地に
1942,3/12“I shall return”マッカーサー
1942,4/10~“バターン死の行進”
1944,10/23マッカーサー、レイテ湾・レイテ島に上陸
■日本人50万人
■フィリピン人100万人が死亡した。
1945,2/25皇居に盲爆
“ミーティングハウス1号作戦”
米軍は───
1944年11月以降、106回にわたって東京の空襲を行っており、
その中でも死者数10万人と著しく多いのが
3月10日の空襲なのです。
1945,2/25の空襲はミーティングハウス1号作戦と呼ばれていました。
神田駅を中心に広い範囲が焼失し、
死者は195名、被害家屋は2万棟あまりに及んだそうです。
皮肉にも、この日は本州の南海上を発達しながら通過しており、
関東やその周辺は広い範囲で雪が降っていました。
米軍は、激しく降りしきる雪空から大量の焼夷弾を投下したわけです。
(Web)
1945,2,25(皇居に盲爆)
徳川義寛侍従の2月25日の日記は言う。
「B29一三○機来襲し、雪中雪上より盲爆す。
帝都に火災。
大宮(=皇太后)御所御守衛隊に爆弾落下。
死傷あり。
宮城内御局に焼夷弾多数落下火災生ず。
(紅葉山の樹にクリスマス・ツリーの如く焼夷弾)」
(井上寿一14,11/27 :日本経済新聞)
1945,2“雪”(高見順)
「今年はいつまでも寒い。わが精神も寒い。日本も寒い」
敗戦の年の2月もよく降った。
作家・高見順は日記に書いた。
B29の襲来、対空砲火や警報を耳に、鎌倉から東京へ通う。
雪中、仲間の消息を尋ね、銀座、浅草などの焼け跡を見て回る。
人と人が、国と国とが信じ合い許し合う日はいつくるのか、と嘆いている
(春秋15,2/11日経)
狂言小舞「景清」の稽古
(能楽師狂言方 山本東次郎15,3/7日経)
その日、午後になると激しく雪が降り始めた。
杉並の家の舞台で父と二人、狂言小舞「景清」の稽古。
戦いに敗れ日向に流され、盲目となった平家の剛勇、
悪七兵衛景清が過ぎし日を回想する能「景清」、
小舞はその最後の場面。
この舞では手に持った扇は刀を意味し、一度も開かない。
小道具の太刀・長刀は武器だが、決して凶器に見えてはならない。
そのために確固とした様式を身に付ける。
足腰の鍛錬とハコビ(能楽の歩行術)を
何としても己のものにさせたいと父は必死だったと思う。
遠くで警戒警報のサイレンが鳴り響き、続いて緊急の空襲警報になった。
B29の飛行音が聞こえ、ヒュー、ズズズズズドカーンと
近くで爆弾が炸裂(さくれつ)する音、
それに伴う地響きが体にずんと伝わってくる。
爆撃は次から次へいつ果てるともなく続いた。
防空壕(ごう)に避難すべきだったろう。
しかし、父は稽古を止めなかった。
物凄(すご)い気迫で稽古を続けた。
それが私を妙に安心させた。
以心伝心とはこのことだろうか、
七歳のこどもであったが、私の中に気が充(み)ち満ちて、
寒いことも恐ろしいことも忘れて、ただひたすら小舞に集中した。
近衛文麿───
1945,2「近衛上奏文」
近衛は、日米開戦の最終決断を東条英機内閣に丸投げし、じっと戦況を見据えていた。
日本の敗色が決定的となった1945年(昭和20年)2月、
近衛文麿は米国などとの和平を促す「近衛上奏文」を昭和天皇に提出する。
「敗戦は遺憾ながらもはや必至」と始まる上奏文は、
敗戦に伴う共産革命の恐怖を説き、
革命の首謀者は軍部や官界の一部勢力であると断じた。
名指しこそ避けたが、岸ら革新官僚を指すことは明らかだった。
この上奏文作成に深く関わったのが、麻生太郎の祖父、吉田茂だ。
親英米派の外交官として鳴らした吉田は、かねて英米との和平の糸口を探っていた。
そこで近衛に白羽の矢を立てる。
上奏文そのものは日の目を見ず、
吉田も上奏文に関与した容疑で憲兵隊に拘束されるが、
この経歴が戦後の米国統治下でプラスに働く。
(吉田修14,2/16日経)
1945,12/16未明、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺した(54歳2ヶ月)。
戦前にゾルゲ事件があった。
ゾルゲや尾崎秀実がスパイ容疑で逮捕され、終戦直前に処刑された。
近衛はアホで、彼らの仲間であった。
一時共産主義にかぶれた。
あろうことか息子の文隆をソ連に留学させたが、ソ連にスパイ扱いされ、
禁固刑を受けてラーゲリに入れられ死没している。
戦後吉田茂のきんちゃく袋になった白洲次郎も秀実とは親しかったらしい。
戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。
天皇は拒否します。
それで近衛が木戸に会います。
これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。
近衛はどういうことを言ったかと。
「お前は天皇に言え。いいか。
海軍は二年しか石油がない、
戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。
陸軍は石油を一年分しか持ってない。
この状態で戦争が出来るわけはない」と嘆いて木戸の許を去ります。
木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。
これは木戸日記にはっきり書いてあります。
(心に青雲Web)
巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の
1945年(昭和20年)12月16日未明に、
荻外荘で青酸カリを服毒して自殺した(54歳2ヶ月)。
GHQに太平洋戦争開戦の責任ありという報告をしたのは、
カナダ人でGHQの調査分析課長だったE・H・ノーマンであり、
ノーマンに情報を提供したのは都留重人(経済学者・元一橋大学学長)だったという。
さらに、鳥居は2人の背後に天皇の忠臣で、
元内大臣の木戸幸一(明治の元勲木戸孝允の孫)がいたと指摘する。
開戦に異論を唱えた近衛と、開戦に同意した木戸。
木戸は保身のために、ノイマンと自分の縁戚関係にある都留を利用した。
都留から「開戦の責任は、東條英機だけでなく近衛にもある」
という話を聞いたノイマンは、
近衛の責任を問う報告をGHQにしたのだというのだ。
(「黙して死す」鳥居民著14,2/16日経書評)
1932ロサンゼルス五輪
“人馬一体”
1932年(昭和7年)のロサンゼルス五輪は、
昭和天皇の乗馬指導をされた遊佐幸平監督の下に
大障害飛越で西竹一中尉が金メダルを、
城戸俊三中佐の耐久レースでの「愛馬精神」という
二つの人馬一体の大きなドラマが生まれた。
スケールが大きくてすごい方だった。
男爵家に生まれ、若い頃、父上が亡くなり、大変な財産を継がれた。
イタリアにいい馬がいると聞くと、
見ないでそれを買いイタリアに飛んで半年間欧州を転戦した。
それが五輪で優勝を飾る愛馬ウラヌス号だった。
ハイカラで軍人離れしていた人だろうと思う。
人の乗るオープンカーを馬で飛び越したり、
ラスベガスでは女性をいっぱいはべらせたり。
バロン・西は戦前にはとてつもない型破りの日本人だった。
1945,3硫黄島玉砕
硫黄島でも胸にウラヌス号のたてがみをしのばせ、
五輪で使ったムチと拍車は最後までそばにあったという。
太平洋戦争末期、西さんは硫黄島で玉砕された。
騎兵第一連隊で父の6年先輩の西さんに父は本格的に馬術の指導を受けた。
皮肉にも、満州(現中国東北部)から硫黄島に転身する命令書を
西中佐(当時)に渡す役を負ったのが関東軍参謀の父恒徳だった。
行き先を明示した命令は「出航後開封」となっており、明かせなかった。
二人は釜山で今生の別れの杯を交わした。
ところが硫黄島に行く途中、輸送船が魚雷に沈められ
「戦車をもらいに来た」と東京でばったり出会っている。
ウラヌス号は東京・世田谷の馬事公苑で眠るがごとく息を引き取ったという。
26歳、人間でいえば百歳にも達する年齢だ。
その日付をあとで確認すると西さんの(硫黄島の戦い)戦死直後であることが判明した。
愛馬は主人の後を追って逝ったのだろうか。
(日本オリンピック委員会会長 竹田恒和15,2/3日経)
「硫黄島の戦い」
栗林忠通中将
1927年(昭和2年)、アメリカに駐在武官(大使館附)として駐在
1931年(昭和6年)8月には、再度北米のカナダに駐在武官(公使館附)として駐在
「予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ」53歳
「国の為重きつとめを果たし得で
矢弾尽き果て散るぞ悲しき」→口惜しと、改竄
Battle of Iwo Jima,
1945 年2月19日 - 1945年3月26日)
太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)での
政府の遺骨収容事業で、
旧日本軍が最後の組織的な攻撃を前に大本営宛ての
電報を打ったとみられる発信所と無線機を地下壕で発見したことが
19日、分かった。
電報は総指揮官の栗林忠道中将が
「矢弾尽き果て散るぞ悲しき」などとした決別の電文として知られ、
重要な史料となりそうだ。
壕の入り口近くでは日本兵とみられる遺骨1柱も見つかった。
栗林中将の指示で打電をした無線班員の可能性もある。
硫黄島の戦いでは旧日本兵約2万1900人が死亡したとされ、
政府特命チームが遺骨収容を進めている。(12,8/20共同)
■建軍の経緯からフランス・ドイツ志向の多い当時の陸軍内では
少数派であった『知米派』であり、
国際事情にも明るく対米開戦にも批判的であった。
組織的戦闘の最末期となった16日16時には、
玉砕を意味する訣別電報を大本営に対し打電、
同日、最後の総攻撃を企図した栗林は残存部隊に対し以下の指令を送った。
一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ/
二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス/
三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、
最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ
大君{注:3語不明}テ顧ミルヲ許サズ/
四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ
■17日当日および以降は総攻撃の機会が訪れなかったため、
以来時機を窺っていた栗林は26日、約400名の将兵とともに、
自ら指揮を取りアメリカ陸空軍野営地に対し夜襲を敢行し、
戦死したと推定されている
満53歳没。
(web)
“noblesse obligeノブレス・オブリージュ”
栗林 忠道(1891年〈明治24年〉7月7日 ‐ 1945年〈昭和20年〉3月 26日=53歳で)
白洲次郎(1902年2月17日 - 1985年11月28日)この時点で=42歳か。
バロン西こと西竹一(1902年7月12日 - 1945年3月22日)=42歳
■1932ロスアンジェルスオリンピック馬術障害で金メダル。
10万の観衆をうならせた。
最後の障害でウラヌス自身が自ら後足を横に捻ってクリアしたこともあり、
インタビューでは「We won.」(「我々(自分とウラヌス)は勝った」)と応じ、
世界の人々を感動させた。
府立一中(日比谷高校)同期には小林秀雄、迫水久常らがいた。
神戸一中で白洲次郎は今日出海と同期
英国留学の白洲はキングズイングリッシュ。
戦時中は武相荘(武蔵と相模の境にある地)にこもり、百姓のまねごとをしている。
1951サンフランシスコ条約締結の際に、吉田茂に同行。
因みに小林秀雄と今日出海は東大で親友になる。
迫水久恒は「終戦の詔勅」の作成に関与。
同様に西洋の「彼我」のインテリジェンスに通じていた二人に、
いま“美学”としての日本人は、どちらだらう。
“大人格”の西郷(=栗林)がゐて、
「行藏(こうぞう)は我に存す、毀譽(きよ)は他人の主張、
我に与(あず)からず我に関せず
福沢諭吉が勝海舟に送った論難「痩我慢の説」への返書であるが、
明治維新の切ったはったの命の境に
自らを置かずに頓ずらしていた諭吉のことをふと彷彿させる。



