「しかし今こそこの場で国歌を歌おうではないか」
安野光雄(11,2/17日経)
昭和23年(1948年)のこと。
全国を遊説していた教育者で玉川学園創立者の小原國芳先生が、
徳山(現在の山口県周南市)にも来られた。
「四国の海岸通りを車で走っていたとき馬車がいた。
馬は日の丸の旗を腹かけにしていた。
わたしはすぐ車から降りて、その日の丸を500円で売れと言った。
日本は敗れはしたが、
日の丸を馬の腹かけ(馬に集まるアブよけ)にしてほしくなかったのだ。
「───また戦争をやろうというのではないが、
少なくともこの国を立て直さなくてはなりません」と切々と訴えた。
小原先生の話は集まった人びとの心を打たずにはおかなかった。
先生は静かにピアノの前に進み
「GHQはわたしたちが国歌を歌うことを禁じている(当時はみなそう思っていた)。
しかし今こそこの場で国歌を歌おうではないか」
と導入部を弾いて斉唱を促した。
全員が起立し、国歌は会堂に満ちた。
子どものころから折にふれて歌ってきた曲の記憶が呼びさまされ、
わたしも歌った。
全員がしみじみと歌い、
滂沱(ぼうだ)として流れる涙をふく者さえなかった。
戦前、日の丸行進曲という歌があった。
「敵の城頭高々と 一番乗りにうち立てた 手柄はためく勝ちいくさ」と歌う。
わたしたちはこの旗の下に戦った。
兵士を駅頭に送り、敵の城頭にうち立て、
占領した町には地図の上に
次々と日の丸を記したことを思い出さずにはいられない。
戦前の人間は日の丸を見て、わたしたち自身の過去を思い出す。
日の丸が憎いのではない。「戦争を知らない子どもたち」に、
また鉄の雨が降るようなことのないことを願って、
杞憂(きゆう)にとらわれるのである。
(安野光雅・画家11,2,17「私の履歴書」)
■1946~48「農地改革」
戦後の農地改革はコメの増産に大きく貢献した(農地改革時の農林省のポスター)
1946三池炭鉱労働組合
1947“向坂学校”
1946年、約1万6000人の組合員を有する「三池炭鉱労働組合」が結成される。
当初は労使協調型の穏健な組合で「眠れる獅子」と呼ばれていた。
この三池労組を闘争至上主義の先鋭集団に育て上げたのが
大牟田出身のマルクス経済学者・向坂逸郎(さきさかいつろう)である。
九州大学教授だった向坂は
47(同22)年から「向坂教室」といわれた学習会を開き、
マルクス・レーニンの社会主義思想を労組員に注入していった。
一途な気質の炭鉱労働者たちは階級闘争理念で理論武装され、
「向坂チルドレン」として組合を非妥協的な強硬路線へと導いていくことになる。
のちの三池争議は、向坂による「社会主義革命の実験闘争」とみられ、
その指導が「視野狭さく」と批判されることになる。
(井上亮14,3/9日経)
1947,1/1“「労働組合不逞の輩」発言”
総理大臣吉田茂は年頭の辞で挨拶した。
1947,2/1“2.1ゼネスト”禁止
1950“レッドパージ”へ
■「産別」→「民同」へ
(web より)
当初の労働運動は、インフレや産業荒廃を背景にした
生活条件闘争がそのほとんどを占め、
また全日本産業別労働組合会議(産別会議)など左派優位であった。
それらの一番のピークは
1947年2月1日に計画された二・一ゼネストで、
官民合わせて数百万人が参加する予定だった。
だが、GHQは「日本の安定のため」とこれを禁止。
以降、反政府色の強い運動に対し制限が加えられることとなる。
具体的には、
1948年の公務員のストライキ禁止(政令201号)、
1949年の労働組合法・労働関係調整法の改正、
1950年のレッドパージや団体等規正令などである。
このGHQの政策転換に右派系・中道系の組合の地位が相対的に強まり、
また日本共産党の影響が強かった左派系の組合では
共産党の影響を排除しようとする産別民主化同盟(民同)の影響が強まった。
1947,4学制改革(6.3制)誕生「新制中学」
森戸辰男文部大臣(6.3制)学制改革(片山内閣)新制中学の苦難の出発。
当初、独立校舎を持ちえた中学校はわずか15%ほどで
「青空教室や不正常授業はいたるところでみられた」。
それでもこの制度が定着したのは、
敗戦後の社会に教育新生への情熱が満ちていたからでもあったろう。
文部大臣・森戸辰男はかつて「危険思想の持ち主」
無政府主義者クロポトキンを紹介する論文で東京大学を追われたことがある。
1947,4教育制度改革(森本公誠)
4月から新制中学校が発足する。
ところが実態は地元の
村立国民学校の高等科の先生が
そのまま中学校に持ち上がるだけ。
子供の教育に不安を感じた親が私立中学校に通わせることを希望したのであろう。
受験を希望する生徒が7、8人、放課後に居残って補習を受けた。
これまで子供たちを叩(たた)いてきた先生であったが、
熱心に教えてくれお蔭(かげ)で新制天理中学校に入学出来たが…
■日教組は自主独立であらねばならない、とする。
1947年6月、日教組が結成され、全国の教職員50万人が参加しました。
当時の日教組は何をめざしていたのか、
設立されたときの綱領は以下のものです。
一、われらは、重大なる職責をまっとうするため
・経済的、
・社会的、
・政治的地位を確立する。
一、われらは、教育の民主化と研究の自由の獲得に邁進(まいしん)する。
一、われらは、平和と自由とを愛する民主国家の建設のために団結する。
内容を見ると「教育の民主化」や「民主国家の建設」など、
戦前の反省から生まれたものであることがわかります。
51年の大会では「教え子を再び戦場に送るな」がスローガンとして採択されます。
日教組の平和路線の追求は、安保反対闘争や米軍基地反対運動にもつながります。
52年の大会で「教師の倫理綱領」を制定します。中には
・「教師は労働者である」
・「教師は団結する」などの言葉がありました。
「教師は聖職である」と考える人たちからすれば、
とんでもない宣言だということになります。
日教組はその後も拡大を続け、
58年には組合員数が67万人に達しています。
・・・・・文部省とのその後も対立。しかし、
99年、日の丸を国旗、君が代を国歌とする法律が制定され、
日教組は方針変更し、反対運動をしないことになりました。
(「池上彰の教養講座」12,11/19日経)
1948「教育勅語」失効
明治天皇が
1890年に発布し戦前の道徳教育の根本理念とされた教育勅語の正式名は
「教育ニ関スル勅語」で、父母への孝行や夫婦の和など12の徳目を記している。
各地の小学校などに謄本が配られ、その後の軍国主義教育に使われた。
1948年に衆参両院が「排除」「失効」を決議した。


