「政府も企業も家計も赤字」

1947「経済白書」(都留重人)



■“ヤミ米=5倍以上の価格で”

45年8月に終戦を迎えて状況は一変する。

代わって出てくるのがヤミ米だ。

政府買い上げ以外の米で、食糧不足を背景に高値で取引された。

47年の供出米価格は1升(1.8リットル)で17円60銭。

これに対しヤミ米は同100円にもなった。

ヤミ米は年間10俵を超える時期(48年)もあったが、56年以降は減少、

60年代前半で姿を消した。

(赤木祥彦よしひこ・福岡教育大学名誉教授12,6/6日経)


■1946摂取カロリーが供給カロリーを超えていた。

■1955になってようやく食べられるようになった。

1946年の国民1人当たりの食料エネルギー供給は

戦前より600キロカロリーも低く、供給カロリーが摂取カロリーを上回るのは、

55年を過ぎてからのことである。

言い換えると、それまで日本人は本来食料ではないものまで口に入れていた。

食の安全はどうでもよいというわけではないが、安全を考える以前に、

絶対量の調達が困難な時代がさほど遠くない昔にあったことを、

私たちは心に銘記しておくべきだろう。

(「安全で良質な食生活を手に入れる」時子山ひろみ著)




1945年11月2日、日本社会党が結党した(写真は結党大会)。

「政治は民主主義、経済は社会主義、外交は平和主義」を掲げ、

保守批判への期待などを背景に存在感を高めた。

党委員長で首相経験者は連合国占領下で就任した片山哲。


■1949~1㌦=360円の固定相場に

■“新円切り替え”“預金封鎖”

1946,2/16発表

1946,2/17施行

(森本公誠・東大寺長老14,8/5「私の履歴書」)

この月、父に東京から迎えが来て、戦犯容疑で巣鴨拘置所に連行された。

一家は大黒柱を失い、世の中もガラガラと変わっていく。

軍人の家では否応なく買わざるをえなかったのだろう。

その戦時国債は紙屑となった。

預金は封鎖、引出額は制限され、新円に切り替わった。

このあと猛烈なインフレが襲った。

入学当初は50円だった月謝が3年生の初めには750円に跳ね上がった。

その間、横浜の米軍法廷で、父に重労働20年の判決が下った。

たびたび上京していた母の心身の労苦を思うと、子供でも台所事情はわかる。

担任の先生に退学を申し出た。

学校では授業料免除の特別措置を取って下さり、学業は続けられた。



一万田尚登・日銀総裁───

一万田は就任直後の記者会見で次のように述べている。

「当面の金融対策は

・インフレ防止をどうするか、

・生産をいかに増強するかにあり、

すべてを新日本経済の再建において

総合的な広い意味の生産計画を樹(た)てなければならない」。

金融緊急措置により、

ハイパワードマネー(現金と日銀当座預金の合計)の量を一挙に収縮させて

・インフレを沈静化させるとともに、

預金封鎖を通じて預金の取り付けが

・金融システム崩壊を引き起こすのを阻止しようとした。

これらの施策を総合的に推進する強い権限を持つ官庁として、

経済安定本部の設置が5月に決定され、

同本部が8月に発足した。



■六・三・三制   

■男女共学    

■PTA創設

1946(昭和21)年3月30日

「アメリカ教育使節団」が

GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官・マッカーサー元帥に報告書を提出した。

使節団は、わずか1カ月足らずの調査で

「六・三・三制」「男女共学」「PTA創設」など、

現在の日本の教育制度の基盤となっている制度を提言した。

その報告書のなかで「国語の改革」と題して、

漢字が日本の民主化に必要な知識習得を阻んでいるという見解を示した。

そして漢字を速やかに全廃し、表音文字であるローマ字での表記を採用すべきであると断じた。

アメリカ人は戦争で目の当たりにした日本人の「狂信」の根源に漢字があると考えたのだ。

■“傾斜生産方式”

石橋湛山───

終戦直後には第1次吉田茂内閣蔵相として、経済安定化政策を指揮し、

ケインズ的視点から生産拡大を重視した中間安定論を唱えた。

この方針は一挙に経済の安定化を目指すGHQ(連合国軍総司令部)と対立し、

公職追放となったこともある硬骨漢だった。


大来佐武郎───

1942年 – 大東亜省総務局調査課に転じ、物資動員の調査に携わる。

同年、鉄鋼生産力の低下から敗戦が不可避であり、

戦争終結の必要があることを風見章を通して近衛文麿に伝える。

1946年 – 吉田茂のブレーンとして、

有沢広巳・東畑精一・大内兵衛らとともに『日本経済再建の基本問題』をまとめる。


復興金融金庫=

1946年10月7日の法律第34号 復興金融金庫法によって設立された

全額政府出資の金融機関。

〈復金〉と略称される。

前身の興業銀行復興金融部(1946年6月設立)を引き継いだものであるが、

設立についてはGHQの指導によりアメリカの復興金融会社にならったといわれる。


戦後の日本では傾斜生産方式

(1945年(昭和20)の敗戦後の日本経済の破局的状態に対し、

翌46年12月24日の閣議決定により)により

・石炭が鉄鋼業に重点的に配分され、その後の高度成長期への足掛かりとなった。

欧州では独仏中心に

・石炭と鉄鋼の共同管理

(1951年のパリ条約(欧州石炭鉄鋼共同体設立条約 、ECSC )が始まり、

欧州統合の発展の起点となった。

この2つは偶然の一致ではない。

戦後、物資の制約が強い時期にこそ、

限られた資源を最大限に活用する政策や制度が実現したと言える。


1946年(昭和21)末に提唱され、

1947年から本格的に実施された戦後復興のための経済政策。

提唱者は第一次吉田内閣が設置した石炭委員会で、

会長の有沢広巳大来佐武郎の構想をヒントを得て立案したといわれる。

限られた資金と資材を基礎素材の生産に集中的に傾斜させ

これを原動力として経済全体の復興をめざすというのが傾斜生産の発想だった。

具体的には、輸入重油を鉄鋼生産に投入し、

増産された鋼材を炭鉱に投入し、

さらに増産された石炭を鉄鋼業に投入するという操作を繰り返し、

石炭・鉄鋼の生産回復を図ろうというもので、

のちに食糧や肥料も増産の対象とされた。


1947年1月復興金融金庫が開業した。

その融資先は、上記重点産業とされたものが多く、例えば、

1950年1月末の融資総額1,077億円のうち、

399億円は貸出額10億円以上の僅か11社

日本発送電、三井鉱山、三菱鉱業、北海道炭礦汽船、

昭和電工、井華鉱業、関東配電、関西配電、

明治鉱業、宇部興産、東芝)の巨大企業に集中していた。

この融資資金の財源は、当時の市場の状況では、

大部分が日本銀行による債券(復興金融債)引受に依らざるを得ず、

1947年夏には、国会でもインフレ促進の懸念が指摘されていた。

復金自身が融資の自律性を失ってゆく。


日銀総裁・一万田は───

一万田は中央銀行の常態を外れて産業政策に踏み込むことを通じて、

逆説的だが、金融機関の自主性と市場メカニズムを基礎とした金融システムの枠組みを守った。


■経団連と、事務局を置いた日本工業倶楽部会館

正面屋上にハンマーを持つ鉱員と糸巻きを手にする工女の彫像。

経団連が創立総会を開き発足したのは、

1946年8月16日である。

米国をはじめとする連合国に無条件降伏してからまだ1年で、

日本国はいわば倒産状態だった。

経済団体連合会(経団連)と日本経営者団体連盟(日経連)。

経団連は1946年に(対GHQに)経済界の意見を集約する団体として発足。

日経連は48年に労働問題に対応する経営者団体として誕生した。


「政府も企業も家計も赤字」

1947「経済白書」



「望まぬ現実には目をおおい、

望む方向には事実をまげようとする為政者のきょうだな態度は、

はかり知れぬほど国民にわざわいした」

敗戦後の復興計画策定を担った経済安定本部

1947年に出した第1回の経済白書。

経済学者の都留重人らが執筆したこの白書は

厳しい言葉で過去への反省を述べた。

そのうえで

「政府も企業も家計も赤字」と事態をかみ砕くように解説し、

国民に「一時的な耐乏」も含め復興の過程に加わるよう呼びかけた。


大来佐武郎───

白書の源流は47年の経済実相報告書だ。

企画庁の前身で最強官庁といわれた経済安定本部(安本=あんぽん)

調査課長、都留重人の筆による総説は

(1)政府の財政

(2)農業経営をふくむ民間企業

(3)国民の家計――の

3つの経済主体がすべて赤字にあえぐ

実態、要因、めざすべき方向をわずか13ページにおさめた。

第2回の48年から4回つづけて白書を書いたのは、

都留の後任の大来佐武郎だ。

大来は外務省をやめて浪人ぐらししていたとき、

英労働党政権が刊行したエコノミック・サーベイを読みこなした。

その経験が

・経済分析、

・政策運営、

・予算編成の方針を網羅した政府報告書が

日本にも必要だ、という信念を生んだ。