「この年少の作者は、

併し悠久な日本の歴史の請まうし子である」

1938年(昭和13年)、成城高等学校(現・成城大学)教授就任。

同年、清水文雄らと雑誌「文藝文化」を創刊。

同人には他に池田勉、栗山理一らがいた。

のちに同人に加わる三島由紀夫の『花ざかりの森』が掲載された

昭和16年9月号の編集後記で蓮田善明三島由紀夫を激賞する。

「ふるさとの 驛におりたち 眺めたる かの薄紅葉 忘らえなくに」

1939年(昭和14年)、中支戦線洞庭湖東部の山地に従軍(歩兵少尉軍務)

1943年(昭和18年)、中尉として再召集。

1944年(昭和19年)よりインドネシアを転戦。

1945年(昭和20年)8月19日、ジョホールバルにて

所属する部隊の歩兵第123連隊長・中条豊馬大佐を射殺。

その後、ピストル自決。享年41。

 

一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル

昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」

阿南惟幾これちか陸軍大将(最後の陸軍大臣)終戦の日に日本刀で割腹自決

■「介錯はするな、不要だ。まして医者など呼ぶな

「オレは出来るだけ長く苦しんで、死にたいんだ。外道の統率者として長く苦しんで死にたい」

“特攻”の創設者、大西瀧治郎・海軍中将(海軍特攻の父)8月16日、日本刀で割腹自決

本庄繁陸軍大将(枢密院顧問、関東軍司令官を歴任)11月20日、割腹自決

■「あなたは死なないんですか」と妻に促されて、

杉山元陸軍元帥(陸軍大臣・参謀総長歴任)9月12日ピストル自決

(胸に四発。東條と大違い)

夫人も殉死

東条英機

9/11午後4時ごろ、アメリカ軍憲兵(MP)の一行が東條の自宅に到着。

正式の逮捕かどうか通訳を介して訪ねた。

すぐに仕度するように求めると、しかし、

4時17分ごろ、玄関が開く代わりに1発の銃声が響いた。

東条は外で待機する米軍の医療チームを予想していた。

銃は腹部へのものであり、その怯懦は、刀などによる割腹

つまり“もののふの作法”を逸脱してゐる。

 

山田風太郎『戦中派不戦日記』

敗戦の翌日の一万六千字を超す日記は、百年を要する祖国再興への決意を記す。

「甘い、感傷的な、理想的な思考はみずから抑えよう。

……敵が日本に対し苛烈な政策をとることをむしろ歓迎する」

近衛文麿

1945,12,16未明近衛文麿、青酸カリ自殺

開戦に異論を唱えた近衛と、開戦に同意した木戸幸一

木戸は保身のために、ノイマンと自分の縁戚関係にある都留重人を利用した。

カナダ人でGHQの調査分析課長E・H・ノーマンに情報を提供したのは都留重人

(経済学者・元一橋大学学長)だったという。

 

1945,9,13(安達二十三はたぞうパプア・ニューギニア)

降伏調印式にてホレス・ロバートソン少将に降伏の証として軍刀を手渡す安達中将

その際、安達は麾下の将兵に対し

「軍は大命に基き豪州第六師団に降伏せんとす」と命令した。

日本軍の降伏にあって、これほどいさぎよい言葉を用いたのは他に例がない。

降伏後には戦犯として扱われ、大部分の将兵が復員した

1946年(昭和21年)1月以降もムシュ島において服役を続けた。

その後終身刑を宣告されながら部下の判決が全て下るのを待ち、

拘留中の部下8名の釈放が言い渡されると弁護団に礼を述べた後自決した。

“ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア”

「リ号作戦」───

14万8000人の大兵力のうち、戦後に生還できたのは1万3000人だったという

(藤原彰「餓死した英霊たち」)

戦犯収容所にて同室であった第8方面軍司令官今村均大将宛の遺書には

「…少官は、皇国興廃の関頭に立ちて、

(中略)人として堪へ得る限度を遥かに超越せる克難敢闘を要求致し候。

之に対し、黙々之を遂行し力竭きて花吹雪の如く散り行く若き将兵を眺むるとき、

君国の為とは申しながら、其断腸の思いは、唯神のみぞ知ると存候。

当時、小官の心中、堅く誓いし処は、必ず之等若き将兵と運命を共にし、

南海の土となるべく、縦令たとい、凱陣の場合と雖も渝かわらじとのことに有之候…」

 

1945,9/1八田與一(はったよいち)技師の妻、

外代樹(とよき)夫人が夫の建設した烏山頭ダムに身を投げて亡くなる。

台湾で日本統治時代の

1930年、当時としてはアジア最大級の烏山頭ダムを建設するなどして、

不毛の土地を台湾最大の米作地帯に変えた。

八田與一氏は、1910年、24歳の若さで台湾の土を踏み、

日本の台湾総督府に勤務していた金沢出身の技師。

1942(昭和17)年、乗船していた陸軍の輸送船が米潜水艦に撃沈され命を落とした。

しかし、外代樹夫人はそのまま台湾にとどまり、

1945年終戦を迎えて政府から台湾在住者に引き揚げ命令が下されても日本に戻ろうとせず、

夫の與一が建設した烏山頭ダムの放水口で跳び下り自殺

台湾───

1930,10/27霧社事件(台湾原住民の暴動に対し)

1931「嘉農」(嘉義農林学校)

全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)で、

初出場ながら準優勝を果たした。

■善の善なるかのやうなアメリカ映画だ。

1947日本公開。


 

「焼き場にて」ジョー・オダネル

“背筋が凍るような光景でした”

男たちは幼子の手と足を持つと、

ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。

それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がりました。

真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。

その時です。

炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気づきました。

少年があまりにきつく噛みしめているため、唇の血は流れることなく、

ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、

沈黙のまま焼き場を去っていきました。背筋が凍るような光景でした。web

 

敗戦時の『ポツダム宣言』には

日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去すべし〉

と書かれている。

8.15が非常に大きな変化だということは大前提ですが、

戦前に民主主義がなかったわけではないと戦勝国もわかっていたんですね」

(樋口陽一・憲法学者11,8/13日経)

 

国体───

絶対的な大義=悠久な絶対的歴史的存在価値

である日本という国に、好むと好まざるにかかわらず生まれ、

そして生き、そして死んでゆく=国民統合の中心(天皇という)

領域に属することを自覚する国民としての個人、

それらを集団的価値として民族のDNAに本能的に浸み込ませ、引き継いできた。

■国体とは桜が咲いたからと「わっと集まる」というような集団的我々の心理などにも顕れる。

■我々はすべて天皇家を本家としてそれに属すると云ふイズム。

日清戦争の勝利や治外法権の撤廃などを背景に、

欧米の論理に囚われない日本独自 の国体論が新たな形で登場する。

■立憲主義・民本主義=天皇による統治は国民のために行われるべきと主張する。

(美濃部達吉・吉野作造など)。

■水戸学では日本とは一つの道徳的実残の運動体(国体)であるとして来た。


 

“マッカーサー「5大指令」10月”

1945(昭和20)年10月11日、新任挨拶のために幣原首相はマッカーサーを訪問

①秘密警察の廃止1945,10,10政治犯(共産党員)の釈放

②労働組合の結成奨励

③婦人の解放。12月衆議院の選挙法を改正し、

男女同権(婦人参政権・選挙は

1946年4月に行われ、女性議員は39人も当選)

④教育の自由化=天皇崇拝、忠君愛国など修身教育の禁止

⑤経済機構の民主化

“財閥解体”46年9月三井・三菱等5社が指定持株会社に指定されたのを皮切りに、

第5次指定までで83社が指定されました。

47年7月には三井物産、三菱商事が解散を命じられました。

12月には「過度経済集中排除法」が制定され、対象として325社が指定されました。

 

1945,10/24「国連」発足

国際平和

→国際秩序

→国家主権主義(内政不干渉)   

アメリカ案に沿った国際機構の創設が連合国側の構想として公式に示されることになった。

(14,9/11日経)

国連憲章体制という現行の秩序モデルは先の大戦末期、

「国際平和と安全維持」のために設立された国連の理念をもとに、

武力不行使・内政不干渉・領土不可侵を前提に

国家間紛争の平和的な解決を迫るものである。

外部の力による国境線変更は禁じられ、

違反行為には国連安全保障理事会が軍事・非軍事の制裁を科すことも予定されていた。

だが、いまやロシアや中国という

本来は秩序の擁護者であるべき国連安保理の常任理事国が、

率先して現状の国境線に対する強制的な変更の当事国となっている。

この事実だけでも、秩序の動揺を指摘しないわけにはいかない。


 

1945年11月2日、日本社会党が結党した(写真は結党大会)。

「政治は民主主義、経済は社会主義、外交は平和主義」を掲げ、

保守批判への期待などを背景に存在感を高めた。

 

(退位問題=「昭和実録」14,9/9)

1945(昭和20)年8月29日、木戸幸一内大臣

「自らの退位により、戦争責任者の聯合国への引渡しを取り止めることができるや否や

について質問する。

46年1月4日、藤田尚徳侍従長

退位問題に関して連合国軍総司令部(GHQ)の意向を懸念していることを伝える。

同3月20日、寺崎英成宮内省御用掛マッカーサー元帥の秘書・フェラーズと面会。

元帥が退位を希望していないと信じるとの回答を得る。

 

おそらくは「天皇といふ装置」に対する

世界の中でのその時点でのバランスに配慮したからであろう。

 

46年1月1日に公布された「新日本建設に関する詔書」、

いわゆる「人間宣言」

45年12月からGHQのダイク民間情報教育局長、学習院教師のブライスらが案文を作成、

天皇に見せている。

 

同12月27日には詔書に五箇条の御誓文の趣旨を挿入することを希望。

同29日に吉田茂外相木下侍従次長が詔書修正案を協議。

日本人を以て神の裔(すえ)なりとし

他の民族に優越し世界を支配すへき運命を有すとの

屡々(しばしば)日本人の責に帰せしめられたる架空なる観念」の部分が

マッカーサーにより「天皇を以て神の裔なりとし」と訂正されたことが問題になる。

天皇は「朕(ちん)が神の裔でないとすることには反対」の意見であることから、

「朕を以て現神とし、爾等(なんじら)臣民を以て神の裔なりとし」の修正案が作成される。

 

汝ら臣民に責任があるのではなく

朕が神の裔であるとし、それに責任があると

天皇は自らの戦争責任に触れたかのやうであった。

 

1945,9,27天皇は初めてマッカーサーを訪問する。

「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行った

すべての決定と行動に対する全責任を負う者として、

私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした。」

(『マッカーサー回顧録』)

1946,1,1天皇による『人間宣言』

この年の歌会始では

「ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ」

との御製。

1947,9『天皇メッセージ』は、前年の新憲法のもと天皇は“象徴”であって、

天皇による政治的発言には掣肘が課せられていたにもかかわらず、

天皇は神の裔を忘れられなかったのか───

「米国が沖縄の軍事占領を継続することを希望する」

との大胆な内容のメッセージを伝えられたようである。