1933,2/10───

猪瀬直樹氏は「昭和天皇実録ピンポイント」(14,9/11)で

「昭和天皇が伝家の宝刀を抜くとしたら、ここだった」

と説明した。

関東軍が「熱河作戦」を実行したい旨が奏上されて来る。

首相の斎藤実は“リットン報告書”、イギリスの国際連盟への調停提案などを踏まえ、

内閣としては反対の立場を示している。

ここで「熱河作戦」を実行したら、日本の世界からの孤立は免れ得ない。

1933,2/4に一旦は

「載仁(ことひと)親王に対し、熱河攻略はやむを得ざるものとして諒解を与えた」が

これに関し、取り消したいと侍従武官長や内大臣に伝えた。

侍従武官長は

二月十日に「参謀総長の拝謁時に仰せられたき旨」をお伝え下さいと言った。

ところがこの当日

「熱河作戦発動の中止が可能か否かを御下問になる」が、

とうとう「中止せよ」と毅然とした態度で命令することはできなかった。

天皇大権(統帥権)の発動は無かったまである。


昭和天皇=1901生まれ(当時31歳)

陸軍参謀総長は=(閑院宮)載仁親王(1865生まれ)

内大臣は=牧野伸顕

侍従武官長は=奈良武次

天皇の御進講掛り=参謀次長の眞崎甚三郎


軍部は「御裁可済み」として敢行を強く主張。

翌2/11は紀元節になる。

「賢所・皇霊殿・神殿において御礼拝」などの行事がつづき、

天皇はそれでもあきらめきれずに侍従武官長の奈良武次を呼び

軍部の熱河作戦に内閣が反対している、

「統帥最高命令によって作戦発動を中止する」

ことが可能かを御下問になる。

奈良よりは、慎重に熟慮されるべきと言上する。

奈良は「慎重に熟慮されるべき」と不服従であった。

大権を発動すれば

「紛擾を惹起し、政変の原因となる」

極端に解釈するとクーデターも起きかねない、という意味である。

“紛擾を惹起し”=つまり恫喝である。


明治憲法は立憲君主制を志向しており(天皇機関説)、

象徴天皇制に似ている側面もあった。

そうはいえども「統帥権」と呼ばれる軍隊の最高指揮権を持っていた。

この「天皇の大権」は国務からは独立していた。


システムには制度であれ、組織であれ、

おのずから自己振動、つまりバイアスが生じる。

制度“律”=帝国憲法であり、

組織“律”=大本営〈陸軍参謀本部・海軍軍令部〉


社会のシステミックを、人々の理性を木っ端みじんに破壊する、

テロ、暗殺、死刑、とは何であるのだらう。

死を探してみると、

昭和天皇がお生まれになる前では───


1884,12/4甲申事変

韓国の開明派の金玉均キム・オッキュンらのクーデターはあっけなく失敗、

福澤諭吉ら日本政府も手を貸していたが〉

諭吉は特にここであっさりと“脱亜入欧”と金玉均を見捨てる。

あわれ金玉均はその間にも

日本の小笠原やサハリンあたりまで点々と潜伏を続け、しかしついに

1894,3/28日、逃亡先の上海で見つかるところとなり暗殺された。

(金玉均の遺体は)凌遅刑に処された。

その遺体はバラバラにされ、

胴体は川に捨てられ、

首は京畿道竹山、

片手及片足は慶尚道、

他の手足は咸鏡道で晒された。


「脱亜論」は明治18

(1885)年3/16日付の日刊紙「時事新報」の1面に掲載された社説の題である。

諭吉の眼を覆いたくなるやうな“ヘイトスピーチ”・・・


全 琫準(ぜん ほうじゅん)には美しい、悲しい歌が残ってゐる。

日清戦争の原因となった甲午農民戦争(東学党)を指揮した。

1895年初頭に捕えられ、漢城(ソウル)で1895年に処刑された。

全琫準が処刑されて間もなく、

全琫準を密かに偲んで次の歌が全羅道で流行ったという。

「鳥よ鳥よ 青い鳥よ

/緑豆の畠に降り立つな

/緑豆の花がホロホロ散れば

/青舗売りが泣いて行く」

緑豆は全琫準のことで、青舗は緑豆で作った菓子、

青舗売りは貧しい民衆を表していた。


統治能力を失った閔氏政権と宗主国清。

日本は日清戦争で勝利し

1895年4月17日、下関条約が締結された。

その結果、朝鮮は清からの独立を果たしたが、

三国干渉によって日本の影響力が後退すると、

甲午改革によって政権を追われていた閔妃とその一族は

ロシア公使ウェバーとロシア軍の力を借りてクーデターを行い、

1895年7月6日に政権を奪回した。


1895,10/8日乙未事変(いつびじへん)

閔妃(ミンビ)暗殺

閔妃は朝鮮王朝末期の国母と仰がれた。

日清戦争の後、ロシアと結び日本排斥を企てたため、

日本公使三浦梧楼の陰謀により

1895,10/8日、暗殺され、

「三浦梧楼」率いる兵士が女官に間違いないか?と訊ね、

閔妃は森の中で焼かれた

夫の高宗コジョンはロシア公使館に逃げ込み、そこで執務を採った。

様々な青春がある。

後に伊藤博文を哈爾浜駅頭で銃で暗殺した

安重根はまだ15歳の少年だった。