あなたはザムザ氏ですか ?

では、あなたがザムザ氏なんだ。


ザムザは起きたばかりで

ザムザは欠伸をする

ザムザはどこと云って不機嫌ではないが

ザムザは新聞を読み

その新聞は逆さまだ

ザムザはあらかたにおいて詰まらないのだ


飲んでいいのかどうか分からないのだけど

ワインを飲む

ワインはザムザ氏の胃の腑をあふれてあらかた床にこぼれて

床を汚した

床に零れるワインの音は

ザムザ氏のおしゃべりのやうで

しかし、ほんたうのザムザ氏はとても照れ屋で

こんな時はこんな行きがかり上

すこし自嘲気味になる

投げやりにではないが

それでも将来にまだ明るい希望を抱いてゐるのだ


ザムザ氏は知ってゐるのだ

家族がその向かうのドアの向うに息をひそめてゐて

それでこっちを見てゐるのを

やれやれとも思ふがそれもこれも仕方がないことだった

皮膚に食い込んだ林檎が腐りはじめて

甘い香りを立てはじめる

こんなことになったのも妹が驚いて

わたしに林檎を投げつけたからだが

妹にしてみればそれは仕方がないことで

父も母も含めて家族はそれで納得してゐた

ほんたうのことを云ふと

ザムザはとても家族のことを心配してゐたが

一方、家族の方はますます不安を募らせて

それでますます知らんふりをする

ドアの隙間からちょいと覗いて

御兄さんはどして会社にいかないのだらうと疑ふ


ザムザが今では一人では生きていけないのを知っていながら

できるだけ遠ざけ

できるだけ知らんふりをする

陽が完全に明るんできた

とうとう、

「グレゴール」

と父さんが呼ばはる

ザムザはそれをしばらくぶりに聞いたやうな気がして

それが自分の名前であることをようやく思い出し

忘れてゐたことをしばし恥じた

「こ・ん・に・ち・は」、

とやっと答へる

人間の深さのなかに降りてゆきたいのだ


ザムザは芋虫だから

腐りかけた林檎を背に

立ち上がらうとするがそれは敵はず

見たいものがないわけではないが

いまさら眼がかすんできて

ワタシハタレナンダラウ

と云ふことになる


しばらくして家族たちは新しい洋服に着替えて

出掛けて行った。


倉石智證