■左側に見えるのが防衛省の電波塔である。
偏屈か、ヘンクツか電子辞書で調べた
どっちでもいい、と云ふことだったが
わたしは、長靴で
けふの渋谷でもとっても短靴では道を渡り切れない
ヘンクツには利息がつかず
そればかりか山形の南陽市では
ラ・フランスが根こそぎやられて
折角ハートのその形になっているのに残念なことだ
しかし、それより悲惨なのは南木曽地域では
真っ茶色の代赭の土石流が家ごと攫って
十二歳の子供が死んだ
そのころ安倍さんパプア・ニューギニアにゐて
それよりずっと前の70年ほど前には
そこで戦闘があって
水木さんは片腕を亡くした
からだと脳みそに風通しがいいものだから
一行に偏屈にはなりさうもない
しかし、けふの渋谷ではとニュースを振り返ったら
妻がヴェランダで呼ぶ
おお江戸もいましばしの水浸しが去って
つかの間
あゝ、なんて云ふことだ
防衛省の監視塔に
あんな見事な虹のカーブが立ってゐるとは
倉石智證
水木さんは、漫画家の水木しげるさん。
1947と云へば戦後初めての経済白書が出された年だ。
都留重人は日本は貧乏で、
「政府にも、民間にも、家計にもおカネがない」
日本は3つの経済主体が大赤字の国であると、正直に説明した。
ソニーがこの年に品川御殿山に東京通信工業として産声を上げる。
安達二十三(あだち はたぞう)は日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
(以下webより)
1944年(昭和19年)12月から続いた連合軍の包囲の輪は徐々に狭まり、
1945年(昭和20年)7月ついに「9月には全滅」という判断を下し玉砕を覚悟した。しかし
9月13日、終戦の詔勅に基き第18軍はオーストラリア陸軍第6師団に降伏した。
その際、安達は麾下の将兵に対し
「軍は大命に基き豪州第六師団に降伏せんとす」と命令した。
日本軍の降伏にあって、これほどいさぎよい言葉を用いたのは他に例がない。
降伏後には戦犯として扱われ、大部分の将兵が復員した
1946年(昭和21年)1月以降もムシュ島において服役を続けた。
その後終身刑を宣告されながら部下の判決が全て下るのを待ち、
拘留中の部下8名の釈放が言い渡されると弁護団に礼を述べた後自決した。
1947,9/10
遺書───
戦犯収容所にて同室であった第8方面軍司令官今村均大将宛の遺書には
「…少官は、皇国興廃の関頭に立ちて、(中略)
人として堪へ得る限度を遥かに超越せる克難敢闘を要求致し候。
之に対し、黙々之を遂行し
力竭きて花吹雪の如く散り行く若き将兵を眺むるとき、
君国の為とは申しながら、
其断腸の思いは、唯神のみぞ知ると存候。
当時、小官の心中、堅く誓いし処は、
必ず之等若き将兵と運命を共にし、南海の土となるべく、
縦令たとい、凱陣の場合と雖も渝かわらじとのことに有之候…」
