「スラマッタ、ティンガル」

「スラマッタ、ジャラン」

なんて云っていた今村のオジサンはとうに亡くなっていた

ミヨちゃんがさう云った時は驚いた

地下のBarのカウンターの隅でいつもしょっちゅう

にこにこ笑っていた

眼鏡の奥の眼がまた笑ふ


カリマンタンは懐かしい

カリマンタン島に行けば褐色の河が流れてゐて

水辺で子供たちはきゃあきゃあ云って遊んでゐる

カリマンタン島では子供たちは手つかみでも魚が捕れる

カリマンタン島では路地に入ると原色の人たちが迎えてくれて

路地には子供たちがどっと溢れて

みんな眼をきらきらさせて

ぼくたちが移動するといつまでも興味深さうについて回る


俳人の澄雄さんはここを渡って行った

むしろ夜に用心深くだ

昼はそこいらへんか木の枝の上に寝てゐて

夜に行軍しはじめる

なにしろ大本営のやることだコンパスを回し、

地図の上に真っ直ぐな線を引いた


見送られるならSelamat tinggal

「またお会いしましょう」と

見送る人が立ち去る人へselamat jalan.

いってらっしゃい、さやうなら


「翁ともに酷暑を歩きいくさの日」

ところが毎日が分けの分からないさやうならばかりだ

マラリアや飢えで死者が相次ぎ、

終戦を迎えた時、約200人の中隊は8人になっていた。


42,9(九大2年、繰り上げ卒業)召集された。

当時の葉書は5銭だったので「五銭面会」と称された。

11月に妹に葉書を書いた。

もう一度書かう。

「世の中がどのやうに激しい戦ひのただなかにあらうとも、

たそがれは、

すべての母が、心静かに、火を焚く時刻である」

ぼくはこの世界の動乱がいづこより来たり、いづこへ去るものか、分からない。

だが、一切のものの不明の中に、はっきり分かってゐることがある。

人間への愛情だ。

思ひやりと云っていい。

───冒頭の作者は、

平成13(2001)年に96歳で亡くなった竹内てるよさんの『たそがれ』の一節。

竹内てるよ、1942当時37歳。

(07,8/7「私の履歴書」)


1944,7門司港よりマニラへ出港。

砲兵隊でありながら砲はなく

三八式歩兵銃若干と弾丸25発が支給されただけ

船倉は超過密の蚕棚で、汗と脂と男の体臭の中、1㍍先も判別できないほど埃が立ちこめ、

甲板や荷揚げ用ハッチの上にも兵を満載していた。

ところが、門司を出港の際は21隻の大船団だったのに

マニラに到着できたのはたった3隻

あとはみんなバシ―海峡とルソン海峡で潜水艦の好餌となり、

毎日轟沈が相次いで海の藻屑と消えた。

船体が傾くと、お盆の上の豆が片方によって落ちるやうに、

人間が海へ落下する。

それを見るのは耐えられなかった。

マニラの港では日本の船の残骸が各所にみられ、

夕陽に物悲しさが募るばかりに。

(07,8/9「私の履歴書」)


マニラからボルネオに渡ったのは終戦の前年のことであった。

夜陰に乗じ焼き玉エンジンの機帆船を連ねて、ボルネオのサンダカンへ。

そこから南方200㌔のタワオへ移動する。

大砲もないのに毎日、砲座陣地の構築に汗を流した。

砲の代わりにヤシの太い幹が空を睨んでいた。

翌1945、人跡未踏のジャングルの中を無謀な「死の行軍」が強行され、

死者1万を超えたが、

ぼくは背嚢に入れた芭蕉の『奥の細道』の

諳んじていた一節を呪文のやうに唱えながら歩き続けた。

「羇旅きりょ辺土へんどの行脚、捨身無常の観念、

道路に死なむ、是天の命なりと、

気力聊いささかとり直し、道縦横に踏で、伊達の大木戸をこす」(飯坂温泉)


大本営「死の行軍」1月───

敵は西海岸ジェルストン(アピ)を猛爆したので、

西岸上陸の公算大と見た南方総軍や大本営は、

東海岸の主力を西に移す方針を決めた。

そのとき地図を広げた大本営の参謀がタワオからジェルストンへ定規を当て、

「350㌔なら1日40㌔として10日もあれば移動できる」

と云った話だが、

ここに「北ボルネオ転進行動」の名の下に

人類未踏の大ジャングルの中で「死の行軍」が展開されていったのだ。


毎日のスコールを吸った草が茂り、その上に落ち葉が重なって、

足を踏むと30㌢はめり込む。

銃弾や手榴弾は軍人として捨てるわけにはいかない。

(それさへも最後には捨てる兵隊もゐた)

まず水に濡れた毛布を捨て、

マラリアで食欲がないので缶詰を捨て、

やがてもう歩けないという己の限界を知ると自らの命を絶つことになる。

銃口を喉に当て、足の親指で引き金を引く者、

手榴弾を抱き自ら命を亡きものにする者、

毎晩のやうに不気味な手榴弾の破裂音が聞こえた。

高熱で精神に異常を来たす者もあとを絶たない。

遺体を持ち上げると山蛭やムカデに似た虫が腹に這い込んでいる

(07,8/10「私の履歴書」)


カリマンタン島に行けば分かることは分かるんだが

見送られるならSelamat tinggal

「またお会いしましょう」と

見送る人が立ち去る人へselamat jalan.

「いってらっしゃい、さやうなら」と

約200人の中隊がたった8人になっていた。

子供たちは今では水辺できゃあきゃあ云って遊び

褐色の河は子どもたちに充分な免疫を与え

子どもたちはやたらと元気がいい


今村さんは戦後ボルネオ島に木を買い出しに行って

あの南方はむかし瘴癘しょうれいの地と云われて

背嚢に結わえた毛布もたちまちぼろぼろに溶けてゆくと

なにしろカリマンタン島に行けば分かることは分かるんだが

死んだ兵士たちの栄養を吸って

ブビンガ───

この木はかたくて乾くとマホガニーに飴色になって

お店の洒落たカウンターには最高なんだ

見送られるならSelamat tinggal・・・

えーっ、今村の小父さんも亡くなられたの、

ミヨちゃんに聞いた時は吃驚した

涼しいブビンガの飴色のカウンターに

優しい笑顔が眼鏡の奥に


倉石智證

森澄雄───

「生きて帰国できたら、妻や子供を愛し、平凡に生きてゆきたい」。

1945年にボルネオの密林で「死の行軍」を経験したことが

澄雄さんの俳句人生の原点となった。

俳句はいのちをはこぶもの・・・

「翁ともに酷暑を歩きいくさの日」

マラリアや飢えで死者が相次ぎ、終戦を迎えた時、

約200人の中隊は8人になっていた。

「木の実のごとき臍へそもちき死なしめき」

妻の命日の前日17日に詠んだ句。

2010年(平成22年)8月18日

妻の命日に日を同じうして亡くなった。


「冬雁や家なしのまづ一子得て」

復員後、アキ子さんと結婚して上京。

東京都立第十高等女学校(現都立豊島高)の社会科教師となり、

同校の作法室に住み込んだ。


金子兜太は澄雄さんと同じ1919年生まれ同じ齢である。

1944,3金子兜太はトラック島にいる。

「海に青雲生き死に云わず生きんとのみ」(金子兜太25)

3月、トラック島。

ラバウルには水木しげる22歳が。


:けふはまた靖国神社へ春の例大祭とて、

国会のある議員団が大挙して詣でた。

約240万柱。

海没、飢餓、病没、・・・戦わずして亡くなって行かれた方の方が多いのだ。

その無念、痛恨の魂は、

とてもじゃないが靖国には入りきれない。

いまだ多くの方たちのたましひはあちらの地に彷徨っているに違いない。