平和な家庭があり・・・

でも、家を捨てた北村(太郎)さんは違います

恋をし、独りで暮らした時

ほんたうに上手にご飯を炊きました


「なんと遠くへ来たことか

冬の山林

小径をゆっくり登ってゆく

一個の骸骨・・・わたしの骸骨」


さみしい太郎さんは捨ておいて

桃の畑では「荒地の恋」どころではなく

桃の花が真っ盛りです

でも、この青いぬれたやうな空に

花々はひとりぢゃ恋を成就できません

花々たちは一斉に柱頭に管を伸ばし

樹上に受精を焦がれます


「甲府盆地のみなさま

けふはお天気もよく気温が上がるでせう

桃の花の受粉を急いでください」

村々に有線放送が流れ

お百姓さんたちはここかしこに

畑を水平に

畑を傾斜し

樹下に手拭をマスクに

眼鏡に帽子を被り

羽毛を竿の先にホリーウッドの花粉をまぶし

樹の周りを廻り回って伸び上がり、屈んで

パフする


あゝ、春はこのやうにおおいそがしでやって来て

天にこのやうに福音する

空にこのやうに響き合ふのがそんなに悪いことなのでせうか

花の道ならぬ恋に手を貸して

林檎の花が咲きほころぶ季節の前に

甲府盆地ではいたるところの桃畑で

春の祝祭が前触れし

もう北村さんの恋どころではありません

みな樹上に一斉に必ず受精し

それはあなたが待ち望んでいたものですか

過酷とも云へる宿命に

花々たちは一斉に咲き笑いだす


もう、待ってはくれません

ここ二、三日のうちに鳧けりをつけなくては

ひっそりと台所の方に廻って

ご飯うまく炊けましたか

と、ちょいと声をかけてみる


倉石智證