花はそれを誰のために

とは云はないが

好きな人のために花はよそほふ

好きな人は誰

と問へば

朝は水をくれに来るひとと云ふ


水を花に上げるひとは

庭の木を仰ぐ

庭に椎の葉が立ち

鳥が鳴き

髪の毛が耳朶にそよぎ

あなたは誰のためによそほふ

と問へば

好きなひとのためによそほふと云ふ


風がさやぎ

好きなひとは何処に

と問へば

ほら、あそこに───

ミツバチが花から花へ翔ぶころ

ようやく目覚めて

ベッドのうへに起きあがり

じっとこっちを眺めている


少年は麦畑の間の道を何処までもどこまでも駈けて行く

麦の穂の禾のぎがちくちくと裸の腕や肘に触れ

踝は朝露に濡れ

細胞の一つひとつが全身に目覚めて行くかのやうだった


ミツバチが花の前でホバリングし

透明な空気がかすかに蠕動し

永遠の時間が森閑と過ぎて行き

おまへは誰のためにそこにいるのか

と知らんふりして問へば

やはり好きな人のためにと

老人はほほ笑む


倉石智證