人類の歴史とは絶えざる逃走にある・・・
およそ始祖鳥の時代に人類のご先祖様のネズミに似た哺乳類は、
地中に潜り、細々とその命脈をつないでいた。
やがて、猿人から、旧人、ネアンデルタールやホモサピエンスへと発展してゆく。
飢え、寒さ、病気、闇───。
そして、神が生まれた。
群れが生まれ、村落へと、そして王さまが誕生する。
王制は、所有と苦役と不平等、奴隷をうんだ。
衣食住は次第に満たされてゆくが、
国家は最終的に税を前提とする国民との契約者となった。
資本主義は貧困を解決し、みんなが平等に厚生福利を得るための有用な手段である。
資本主義の発展は、封建性を破り、人は土地や、階級や家からさへも解き放たれ、
人々は自由を得た。
民族、人口、性からの逃走もある。
神からの逃走がやや完成し始めたころ、
今度は世界に、消費が神のやうに立ちはだかるやうになった。
人はマネーに四六時中小突きまわされ、消費の前に拝跪する。
グローバルなパラダイムはついに国境さへも乗り越えやうとしている。
だが、一方で世界に今、偏狭なナショナリズムが噴出しようとしている。
憲法とは、慣習、制度、文化、と結びついてゐる。
文化とは、言語、宗教、歴史である。
明治憲法とは、帝国植民地主義時代にあって
「国民国家」を支える基本原理として制定された。
1889,2/11祝砲や鐘が雪の東京市中に鳴り響き、
発布勅書は「不磨ノ大典ヲ発布ス」と高らかに宣言した。
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」
「天皇ハ神聖ニシテ冒スヘカラズ」
民権運動は盛んであったけれど、藩閥政治は残った。
主に長州や薩摩閥の政治の掣肘を排すために
第11条───
「天皇ハ陸海軍ヲ統帥スル」
しかし却って、(軍の)統帥権が議会・政府から独立することになり、
軍の専横を許し、軍の台頭を内含した。
《輔弼=補佐》
行政に関する天皇の輔弼は各国務大臣が行うことを規定しているのみで、
つまり、各国務大臣による単独輔弼制をとっていた。
《内閣総理大臣の地位》
内閣総理大臣は閣内における同等者中の第一人者しての地位でしかなかった。
同年に制定された内閣官制(内閣設置法に当たる勅令)は、
「内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ
行政各部ノ統一ヲ保持ス」
首相に強力な権限を与えなかった。
「閣内不一致」→「内閣総辞職」を余儀なくされる。
首相に国務相の罷免権を与えなかったことが、
1900の「軍部大臣現役武官制」と相俟って、内閣の脆弱性に結びつき、
それらがまた軍部のいたずらな台頭を許す下地となっていった。
1889年にパリのエッフェル塔が建てられる。
パリ万博は文明と文化の昂揚を世界に伝えた。
しかし、1890はつらい年でもあった。
精神を病んだゴッホは自殺する前に「鴉の飛ぶ麦畑を」描く。
「私は思い切り悲しみを表現しようとした。
しかし同時に、私は、自分は見ているが口では語れないこと、
田舎にある健康なもの、人を強めるものを示したいと思う」
(1890,7/10日ころ、ゴッホは死とは対極にある
「健康なもの」に触れた手紙を弟のテオとその妻に出している)。
牧師の家に生まれたゴッホは聖書を熟知していた。
仏オーヴェル。
描いた約3週間後、当地の丘で自殺を図る。
半年後、テオも病で世を去る。
2人の人生はまさに、美の神への殉教の旅であった。
ゴッホの死(1890)の知らせを聞いたゴーギャンは
ベルナールへの手紙にこう書いている。
「この死がどんなにいたましいものであろうと、私はあまり悲嘆には暮れない。
それを予想していたからであり、
狂気と戦うあの気の毒な男の苦しみをよく知っていたからだ。
今死ぬことは、彼にとっては大きな幸せなんだよ。
それはまさに苦しみが終わったということなのだ」
(『オヴィリ 一野蛮人の記録』岡谷公二訳)
(浦田憲治11,11/20日経)
1889にゴーギャンは「黄色いキリスト像」を描いてゐる。
西欧文明の根底にはまぎれもないキリスト者が存在していて、
ゴーギャンはそれらからどんなにか逃れて、
クレオールや、プリミティブなものにあこがれ、それらを指向しようとしたが、
到底、病める西欧文明、退廃する西欧からは逃れることはかなわなかった。
中江兆民がルソーの「社会契約論」を漢文に民訳(1882)する。
ルソーが云ふ「人間はいたるところで、鉄鎖に繋がれている」
とは、明らかに神の、キリスト者の専制に対してであることは明確だ。
その民主主義に疑義を抱きながら中江兆民は
第1会帝国議会選挙に出馬する。
(以下webより)
1889年(明治22年)には大日本帝国憲法発布の恩赦を得て追放処分が解除され、
1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙では大阪4区から出馬する。
自ら本籍を大阪の被差別部落に移し、
「余は社会の最下層のさらにその下層におる種族にして、
インドの「パリヤー」、ギリシャの「イロット」と同僚なる新平民にして、
昔日公らの穢多と呼び倣わしたる人物なり」
と自称した兆民は、被差別部落民らの支持を得て、
1352票を獲得して一位で当選、国会議員となる。
一方、税制、徴兵制を敷いた明治新政府は、
猖獗する自由民権運動に対決する意味でも、
日本における縦の動因律がますます必要になっていた。
東京美術学校が開校した
1889年、美術雑誌「国華」が創刊になる。
その巻頭を飾ったのは
「歴史画は国体思想の発達に随(したがっ)て
益々(ますます)振興すべきものなり」とした創刊の辞であった。
おそらく岡倉天心の手になるであろう巻頭言に、おそらく本邦初めてではないかと思われる
「国体」といふ言葉が使われたのだった。
1890岡倉天心は東京美術学校の初代校長になった(満27歳)。
「富国強兵」「殖産興業」「文明開化」───
国内の多方面での生産性を上げるために伴う急激な欧化主義は、
一方でただならぬ思想的挑戦を受けていた=個人主義とキリスト教の浸透のことである。
1890,10/30「教育勅語」が発表される。
鉄道が日本列島を縦横に走り始める間、
「教育」というもう一つの近代の仕組みに工夫を加えなければならない。
元田永孚(ながざね)は実学党と呼ばれた肥後熊本の横井小楠の弟子であった。
宮内省に入り、明治天皇に侍講として仕える過程で、
彼の儒教的理想主義が、国民国家の教育の具体的な役割として
「教育勅語」を自覚していったのだらう。
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗ノ國ヲ肇ムルコト宏遠ニ
徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」
「父母ニ孝ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、
夫婦相和シ、朋友(ほうゆう)相信ジ―」
人間相互の敬愛と共生の倫理がうたわれている。
(井上亮・編集委員13,10/20日経)
勅語の思想の理論的基礎を固めたのが哲学者・井上哲次郎は勅語発布の翌年、
公式解説書といえる『勅語衍義(えんぎ)』を執筆。
各徳目について詳しく意義を説明した。
「父母ニ孝ニ」については次のように述べる。
「国君の臣民における、なお父母の子孫におけるごとし、
すなわち一国は一家の拡充せるものにて、
一国の君主の臣民に指揮命令するは、
一家の父母の慈心をもって
子孫を吩咐(ふんぷ)(命令する)すると、もって相異なることなし」
日本を
・大家族とみなし、
・天皇を親、
・国民を子に擬した家族国家主義である。
国家は「家」の集合体であり、親への孝行と天皇への忠節が同一とみなされる
「忠孝一致」「忠孝一本」という考え方が生まれる。
そのためには国民各層に家制度が確固として定着していなければならない。
明治国家は、明治憲法、教育勅語、国家神道の三つの側面を有していた。
ちなみに日本のナショナリズムへとつながってゆく熊本実学党とは、
かの横井小楠から井上毅、元田永孚、
そして、徳富蘇峰へと引き継がれてゆく。
一方、中江兆民の弟子は幸徳秋水である。
「ウォーム・ハート、クール・ヘッド」
1890この年、英国でアルフレッド・マーシャルによる
「経済学原理」が執筆された。
経済学を志し、並びに少なくとも人類に対し責任を持とうとする人たちは、
常に温かい気持ち(倫理)と、公平で、客観的な論理を持ち合わせなければならないと、
若い学生たちに語りかけたのだ。
この方の系譜を、あのジョン・メイナード・ケインズが引き継ぐ。
マーシャルのこの頃、ビクトリア時代、
英国は、1873~1896まで、「英国大不況」と呼ばれる長期の不況の時代だった。
ナポレオン戦争時代の国債大発行の余波が残っていた。
欧州大陸も貧乏になって、輸出もままならない。
この間に一気に勢力を伸ばして来たのが“モンロー主義”の米国である。
1859年米国ペンシルバニアで石油時代は産声を上げた.。
そして、英国では特に農業の衰退が深刻。
米国の大陸横断鉄道の完成やスエズ運河の開通(いずれも1869年)によって
安価な穀物が大量に流入するようになり、穀物価格が大幅に下落(図表2)。
農業にとって大きな打撃になった。
世界で一番最初に取り入れた金本位制も経済の足かせになった。
1970年代になって、世界の多くの国が一気に金本位制に参加するようになってきたこともある。
自国に投資することもままならない英国のマネーは、
海を渡って、米国に資本流入するやうになっていた。
日本はこのころ銀本位制(生糸などの貿易有利)であった。
松形デフレが逆に功を奏し、農村で失業した農民が労働者側に供給された。
日清戦争の勝利により、およそ2億テールと云う賠償金を得て、
〈国策八幡製鉄所設立資金にも使われた〉
1897日本は金本位制国の仲間入りを果たす。
横浜正金銀行にいた高橋是清はこの後、日本銀行にうつり、
日露戦争前、ロンドンでポンドでの起債に成功する。
お世話になったのが米国人ユダヤ人ジェイコブ・シフで、
シフはロシア国内での当時の“ポグロム”、ユダヤ人虐待に当然怒りを感じていた。
マネーは廻り、1902「日英同盟」もあって、辛うじて“薄氷の勝利”をもぎ取ることが出来た。
戦はやはり、マネーでするものなのだ。
英国のデフレ状態も改善されていった。


