「あなたは自決せぬのですか」

杉山啓子元元帥夫人は夫を厳しく問い詰めた。

杉山元陸軍元帥(陸軍大臣・参謀総長歴任)は

9/12、ピストル自決(胸に四発。東條と大違い)した。

夫人も見事に懐剣で自刃している。


8/15未明、阿南惟幾これちか陸軍大将(最後の陸軍大臣)終戦の日に日本刀で割腹自決

「一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル」

裏に「神洲不滅ヲ確信シツツ」

「大君の深き恵みに浴あみし身は言ひ遺すへき片言もなし」

享年59歳。

8/16大西瀧治郎・海軍中将(海軍特攻の父)日本刀で割腹自決

「医者を呼ぶな」「外道はのたうちまわって死ぬのだ」

と8時間以上もかけて。

11/20本庄繁陸軍大将(枢密院顧問、関東軍司令官を歴任)割腹自決


9/11午後4時ごろ、アメリカ軍憲兵(MP)の一行が東條の自宅に到着。

東條は正式の逮捕かどうか通訳を介して尋ねた。

MPがすぐにしたくするように求めると、しかし、

4時17分ごろ、玄関が開く代わりに1発の銃声が響いた。



■米国の看護婦さんに点滴を受ける東条英機。


甘粕正彦〈満鉄映画会社社長〉は

1923関東大震災時の大杉栄、伊藤野枝殺害事件

〈大杉の6歳の甥橘宗一も無残に道連れに〉で有名だが、

戦後すぐ、理事長室で青酸カリを飲んで自殺した。

黒板に───

「大ばくち/もとも子もなく/すってんてん」

とあった。


「これぞまさしく日本のまうし子」とまで絶賛して三島由紀夫を発見した薄田善明は、

『おらびうた』の中の一首で、

「ふるさとの駅に下り立ちながめたるかの薄紅葉忘られなくに」

と詩ってゐる。

上官をピストルで撃ってから、シンガポールの郊外で自らもピストルで自殺。

死は文化であるとする善明のそれは、三島の

「などてすめろぎは人となりたまひしか」と

1970,11/25市ヶ谷自衛隊駐屯地での割腹自殺へと結びついた。


薩摩藩の出水いずみでは独特の士風が醸成された。

「士ハ節義ヲ嗜たしなみ申すべく候」。

ウソをつかず、上にへつらはず下をあなどらず──。

「物の哀れを知り人に情けあるを以って節義の嗜みと申すもの也」


1912,9/13明治天皇大葬。

この大葬の日の夜8時、葬列が宮城を出る時刻に、

陸軍大将禾希典は、赤坂新坂町の自邸で妻静子とともに自裁して天皇の後を追った。

「うつし世を神去りましし大君のみあと志たひて我はゆくなり」乃木希典

「いでまして帰ります日のなしと聞く今日の御幸にあふぞ悲しき」静子

その肉体は「さあ私を読め、とばかりに国民の前に投げ出された。

森鴎外、49歳。

9/18、そのわずか5日後に「興津弥五右衛門の遺書」を書き上げてゐた。

夏目漱石は「行人」(1912~13発表)で、

ニーチェの『ツァラトゥストラ』の言葉を引いて、

「孤独なるものよ、汝はわが住居すまひなり」と訳した。

「孤独」が心の孤独を意味するのは近代になってからであった。


終戦直後、一般の方も含めてお腹を召された方たちは大勢いた。

東條には“もののふ”としての心構へがなかった。

武士としての忖度、もののあはれ、それに作法がなかった。

1941,1/8『戦陣訓』

「生きて虜囚の辱めを受けず・・・」

東条英機によって示達されたものだった。


1945,9/13、午前12時をもって大本営は廃止になった。

大本営は明治26〈1893)年に創設され、

戦時または事変の歳に設けられた日本の軍事統帥最高機関。

天皇の「統帥権」が付与された。

1921の「ワシントン軍縮会議」のころから、その空模様が変わって来た。

その時海軍は「5・5・3」と当該国の示す艦船規模の水準に対して、

まず「軍令部」の専権事項である、と内閣を無視せんばかりの態度を取った。

統帥権を盾に取るのは「軍部大臣現役武官制」も同じ事柄である。

隠ぺいと専横と、非効率が始まった。

現日本には日本版NSCが設置された。

国民としてはよくよくチェックしなければならないことなのである。

■「大本営発表」「万歳、バンザイ」


1946,5~「極東軍事裁判」が開かれるが、

小堀宗慶さん〈遠州茶道宗家〉はそのころシベリアにゐる。

東京美術学校(現東京芸術大学)在学中、学徒出陣にて満州に従軍。

終戦後シベリアで4年間の抑留生活を送ることに。

小堀さんは終戦時チチハルにいた。

ロシア軍は武装解除した日本軍の倉庫からあらやる物資を持ち出し、

何十両の貨物列車は国境の彼方へと物資を運び去っていった。

ロシアも対独戦で疲弊していたのだ。

“うんち列車”に乗せられて、お蚕棚にぎゅうぎゅう詰めになって運ばれてゆく。

一両列車に90人、トイレはバケツが一つ。

日本海と見間違えたのはバイカル湖だった。

「塩辛くないぞ」───発狂する者もいた。

運ばれていった先はタイシェットといふ山間の地だった。
貨車から降ろされた我々は、

後から来る捕虜の住む小屋を作ることから始めなければならなかった。

冬に備えて急がねばならない。

昼夜2交代───

飢え、寒さ、ノルマの3重苦に加え、厳しい自然環境が身を苛む。

兵隊は最初の数ヶ月間に次々と死んだ。

当初の各収容所の死亡率は=60%にも達したと云ふ。

特に30歳以上の再召集を受けた兵士達。

作業中ばたっと倒れて息耐えたり、気が付くと小屋の隅で冷たくなっている。

作業はマイナス40度になると中止された。

ペーチカの煙突から出る白い煙が何処までもまっすぐに立ち上ってゆく。

ぞーっと、心がおののいた。

シベリアでは風さへも凍った。

火種(まず焚き火)は火打石の切り火で。

サルノコシカケに似たキノコを乾燥させ、炊事場で裏面に火をつけ、

現場に行く間それを静かに振って火種にした。

雪が降り始める。

冬は9月半ばの初雪に始まり、翌年の4月末から5月初めに雪がとけて終わりを告げる。

凍傷──指先がみるみるうちに白くローソクのやうに変色する。

放置しておけばやがて水が溜まって腐りはじめ、凍傷になる。

そこで白くなったらすぐに雪でごしごしと擦るのである。

作業中仲間の顔を見て、もう鼻の先や耳たぶなどが白くなりかけていたら、

「おい、鼻ッ」

「おい、耳ッ」

などと怒鳴り合いながら裄ゆき(着物の背の縫い目から袖口まで)を掴んでお互いに擦り合った。

■吉林省第71飛行場大隊本部時代の凍傷予防訓練

支給食物──朝夕は雑穀、昼はパンを食べた。

・黒パンは450㌘…水分で目方を稼いだ代物で、正味は煙草2箱分ほどの大きさしかない。

・雑穀450㌘…コーリャン、粟などで、関東軍の備蓄物資ではなかったろうか。

とにかく古く、コーリャンは一昼夜水に浸して炊いてもふくらまず、粟は硬くて噛めなかった。

・砂糖18㌘…スプーン一杯。塩は少々支給された。

それに申し訳程度の野菜の煮たものかスープが付く。

・スープには骨があっても肉は見当たらない。

たんぱく質は一切出た記憶がない。

※百合の根を茹でて砂糖を混ぜて団子に。

※野バラの実を摘んでジャムに。

※キノコはたくさんあったがこわい。ロシア人が採る種類を良く見て覚えてから採った。

※松の皮は甘皮を剥いで茹でる。ちょっと干瓢に似た食感。

消化は悪いが腹持ちはいい。

※松の芯にゐる芋虫。シャベルを奇麗に磨き、フライパン代わりにする。

※蛇は皮を剥いて枝に巻き付け、白焼きにして食べた。

骨のこんがり焼けたのはカルシウムの俸給になった。

※松脂は口寂しさをまぎらわす。さながらチューインガムであった。

※白樺の木の切株の上に甘露の水が皿を伏せたやうに固まっていた。

アイスキャンデーの味がして小躍りしそうになった。

・「花の形をした勇気」…シベリアの暗欝な空から一条の陽光が差し込み、たまたま花を照らしていた。

何気なく見やったその花が、突然、私の心に飛び込んできた。

それは私にとって「花の形をした勇気」のやうなものだった。

極限の日々に、生き抜く勇気のやうなインスピレーションを与えた。

・ソ連下級兵士のこと…規則正しく並んだ小隊の人数も満足に数えられない者もいた。

ソ連兵に数学を教える。

・ジモスコイ少尉のこと…壁画を描きカーテンを彩るという楽しい時間が復活した。

若い奥さんも手料理でもてなしてくれる。

ぼろの軍服を繕い、ちぎれたボタンを漬け直してくれる。

善意は分かち合える、と感じた。

・「空き缶に一輪の花」…キンポウゲ、キンパイ、ニッコウキスゲ、ニッコウアヤメによく似た花が、

一面に精いっぱい命をきらめかせて咲いていた。

「おやすみなさい」と云って就寝の儀式。

同室の誰一人、花に一瞥もくれない。

そしることもほめることもない。

下手に他人のことに心を動かすと自分の命取りになることさえあるのを誰もが知っていた。

それが極限状態の収容所で生きる知恵だった。


列車は一路、東京に向かっていた。懐かしの家路に就く。

そんな車内に何処からともなく

「シベリア帰りは米占領軍ににらまれている。単独行動せず一致団結しよう」

などと書かれた紙が回って来た。

おそらくシベリアで“ツルシアゲ”を行った連中が背後で扇動していたのだろう。

〈小堀宗慶山「私の履歴書」から〉


もうお一人、宮崎進〈しん〉さん

1922生まれ、多摩美術大学名誉教授〈07,6/17日経〉

満州の国境守備隊では、伝令を務める間に、部隊が全滅した。

「後方に行かせた上官は、絵描きの私を生かしたのでしょう」

敗戦後はソ連に拘束され、悪名高いバム鉄道建設に駆り出された。

枕木一本に、死体が一人───。

抑留4年。

朝起きると誰かが死んでいる毎日だった。

画家として用いられ、露命わつなぐ。

朝袋を裂き、画布に用いた。

今でも、絵筆を握り、粘土をこね、自己と向き合う。

毎日が「シベリア」である。