昭和33(1958)12月、

一人の若者が冬山を登ってゐる。

厳冬期に腰まで雪に浸かって───

「わたしは何をしてゐる」

「あなたはなにをしてゐるのだ」。

息せききって鳳凰小屋に転がり込む。

火を燃やす。

その夜はXmas イヴ。

小さなケーキを鉈で切る。

友達から差し入れのコニャックの小瓶の栓を開ける。

山上、山小屋の“たった一人のXmasパーティー”。

山岳写真家・白旗史朗25歳。

山に200日も籠ると云ふ、後に山岳写真家として名をはせる。

(白旗史朗1933,2/23~)

(三浦雄一郎1932,10/12~)

世間ではもうすでに、登山ブームが始まっていたやうだ。


翌年、昭和34(1959)わたしは中学生になる。

世間のことも、世界のことも、何も知らない。

昭和の妖怪と、あまり人に好かれていそうもないおじさんが

1964の東京オリンピック招致をゲットした。


■1959年5月26日、

国際オリンピック委員会(IOC)は64年の夏季大会を東京で開くことを決めた。

招致団はアジアでまだ大会が開かれていないこと、

世界平和に寄与することなどを強調。

委員に「どうか東の若人に会ってください」と訴えた。

58人の委員による投票で、東京は34票を集め、

デトロイト、ウィーン、ブリュッセルに圧勝。吉報が伝わると、

各地に五輪旗が掲げられ、お祭りムードが。

■招致は岸信介さん。

世界の、例えば、

地球の表面を絶えず休みなく塗り変えてゆくものは何か、

と考える。

コロンブスがアメリカ大陸を発見して以来、

執行と、スポンサーが分かれた。

やがて東インド会社と云ふ経営スタイルになって、

それは株式会社という強固な人間の知恵の賜物となって、

人類に水をうるおすやうに豊かさを供給してゆく。


1952サンフランシスコ条約が発効した。

サンフランシスコ講和条約で主権を回復した日本は

1952年8月、国際通貨基金(IMF)と世界銀行に加盟した。

いわゆる、西側諸国の一員として世界経済とつながったのである。

「資本、労働、TFP」が、列島の中で回転し始めた。




1950,6/25朝鮮戦争が勃発。

朝鮮特需へ。

「桐(きり)一葉、落ちて天下の秋を知る」

1953,3/5スターリン死去した。

株価は暴落したが、日本の成長はとどまりやうがなかった。

1956「最早戦後ではない」

経済白書(副題日本経済の成長と近代化)の結びの言葉は、

太平洋戦争後の日本の復興が終了したことを指して自信に満ちている。


東京は関東大震災で江戸の風景はほぼ壊滅したが、

それでも水辺の懐かしい風景は残っていたのだ。



■昭和30年代の佃の渡し(中央区立郷土天文館提供)。

遠方に東京タワー1958,12,23完工式

その形は日本の復興を一瞬にして印象付ける記号である。

佃の渡しは佃島と対岸を結ぶため1645年に置かれ、

1964年8月、渋滞緩和を狙い永代橋と勝鬨橋の間に佃大橋が完成するまで

300年あまりも続いた。


1959正月、

「賃金倍増論」中山伊知郎教授が読売新聞に論文を書いた。

2月、池田勇人は参院選を控え、地元広島で記者会見し

「月給2倍論」を発表。

直後に小学校で「月給は2倍になる ! 」と演説した。

池田はエコノミスト下村治らを集めて政策を議論するなかで、計画を着想していた。