■久里洋二さん「魚の木」
(絵は語る)魚は木を登る。そう言う魚が一杯いるな
或る日魚は思ひました
水の中ばかりじゃつまらない
あの天井の水面のうへはどうなってんだらう
口から出たあぶくがぷかぷかと浮かんでいって
はぢけてきへます
ときどき何かが落ちてきます
虫だったり、芥ごみだったり、石ころだったり
人の声のやうなものがくぐもって聞こえて
あゝ、それで夜でも眠ったことのない眼が
ぱっと見開いて
さうして、ゐても立っても居られなくなるのです
川の水がぐるりと動いて
その時初めて、立ってみやうと思ひました
よく見ると根のやうなものが透明な水の中に斜めに走って
土色のゲンゴロウがゆっくり這ってゆきます
おいでよ、と云ふ声がしました
命令のやうに聞こえ
魚はひしと根に添って立って
そろそろと幹に体を寄せてみます
ひげ根が鰓をくすぐります
そして、その時、わたしは大丈夫だ
と確信したのです
最初に水面から顔を出して見ました
水が眼の膜を覆い
お空が滲んで見えました
あゝ、なんてとほいお空なんでせう
風か少し吹いた時、鰓のところが水から上に出ました
どうかしたのかと思ったら
苦しくなるどころか
なにか言葉が口から出さうな気さへしました
水の下にはいつもの仲間たちがうようよしていましたが
それが今ではとても退屈さうに感じられました
なにを一体してゐるんだらうと思ったときには
もうだいぶ幹のうへの方まで上ってゐて
あれが村の畑だとか
あの向かうには村々の家がじっとかたまってゐるとか
あゝ、少し高い塔のやうなものがあるが
あそこからいつも歌が聞こへてきて
たぶん人々がお祈りする場所なんだと
実際、そちらの方からはなつかしい
元気な子供たちの声が聞こえてきました
あっ、あんなところにお魚さんがゐるよ
岸辺近くまで来た子供たちが私を見つけて
びっくりしたやうな声を出します
わたしは眼を、ぷるッと二三度動かします
わたしは多分ものすごくきれいな色をしていたと思ひます
やはらかいお日さまの光りにキラキラとして
少し私が幹に動くたびにきらめいて
草花や、木の葉さへも耳をすまし、
眼をそばだてるのです
おいでよ、と云う声がまた聞こへました
木の葉の中からかもしれませんが
もっと上のとほいお空のてっ辺からかもしれません
と云ふのも、そのときまだ
白い雲といふのを知りませんでしたから
水の下からなんて
実際何もかも知らないことばかりなんですね
子供たちが見逃すはずがありません
子どもたちっていつだって
少し意地悪で、少しやさしくて、とても気まぐれです
誰かがわたしを掴んで
わたしが手の中でぎゅるぎゅると身もだえすると
わたしの眼の中を深く覗き込んで
誰からだって、
誰からそれは云われたのって甲高い声で聞いて
高いお空の上の方に、ぽうんと投げ上げました
わたしはもう少しで白い雲さんの方に届きさうだと思ったのですが
ゆっくりと放物線を描いて
村の塔を見て、続く畑や野や山を見て
こんなにもしみじみと落下したのです
もう命令のやうな声は何一つ聞こへません
ぽちゃん、と音がしたかも知れません
気が付くとわたしは岩陰に休んでゐて
私の周りには懐かしい仲間たちが
心配さうな顔をして
わたしのことをみんな覗き込んでいるのでした
倉石智證
