どうかすると
トランプが指の隙間から滑り落ちてゆく
世界の不条理性とは
とても後先のことなんだ
僕の預かり知らぬことで
とっても先に起こったことでも、それをぼくは知らない
パタリペタリと来るのだ
ペタリパタリと何度も
湿った布裂きれのやうに
濡れた障子紙のやうに
幾度となくそこまで来ては、引き返す
夜更けて
鉄格子は冷えて
壁は汗を掻き始める
便座は妙に冷たく、タレカに見られている !?
死者は、生者の声を聞き
生者は死者の声を聞く
タスケテ、タスケテ、タスケテと三度
麻酔の針が深々と刺さり
永遠の闇の中に
或る人の記憶はすべて水のやうに流れ去り消へていった
裁判がある、と聞いて
執行はまだ先になると頭の中を横切よぎりました
彼は汗を掻いてゐる
白いワイシャツ姿
頻りに汗をぬぐってゐる
かなり真剣に正直に答えようとしていた
死刑はもうすでに決まっています
死刑はもう減ることはありません
わたしはかなり真剣に答えやうと
あゝ、わたしの意志に反して汗がにじみ出てくる
世界のドン詰まり
どうしてかうなったのか分からない
誠実に本当のことを云ふって
ウソをつかないって
息子はちゃんと云へたと思ふ
おまへが死ぬときでもおまへはかぎりなくわたしの息子だよ
真実が分からない
世界の定理が分からない
どうしてかうなったかが分からない
真実を求めやうとすると闇にある光りのやうに
手を伸ばすほどにゆくへ定まらずに消えてしまふ
初めに在ったのだ、としか云いやうが無い
トランプが指の隙間から滑り落ちてゆく
世界の不条理性とは
とても後先のことなんだ
そして今夜も、ついそこまで
夢の中まで
パタリ、ペタリと来る
ペタリ、パタリと湿った布裂のやうに
乾いた宣誓のやうに
死者は、生者の声を聞き
生者は死者の声を聞く
タスケテ、タスケテ、タスケテと三度
カアサン、カアサン、カアサンと壁の中から浮かび上がって来る
端坐して、泣き笑いする
手を伸ばせばその境の向うにすぐに
あたたかいなつかしい温もりがあるのに
わたしが永遠に闇のなかに消えてゆくとき
世界は私に重大な関心を持って
ちょいと目配せをする
さあ、また前に戻って、
アルゴリズム体操、
始め。
倉石智證
カミュのムルソは
「夕べ、マモンが死んだ」と云った。
海辺で殺人を行ったのは、太陽がまぶしかったからだ、
と云った。
実存が本質に先立つと。
捕えられて収監されるが、
世界の嘲りを感じると同時に、
それでも死に導かれる直前、平安に似た穏やかさが一瞬訪れ、
彼は司祭と世界とに和解することになる。
オウムは───
1972浅間山荘事件や、
1974三菱重工爆破事件、とは明らかに異なる文脈にある。
大阪万博も終わり、集団就職で都市に取り込まれたかっての青少年たちも、
すっかりいい大人になって、四畳半から団地に住まい、
右肩上がりから“モウレツからビューティフル”へ、
都市消費生活者として体制と云う側にすっかり馴染んだ存在となっていった。
1970三島由紀夫は
「などてスメロギは」普通の人になったのだ、と悲しんで市ヶ谷駐屯地で。
浅間山荘ころまではプロレタリア革命、がまだ彼らにはまことしやかに信じられ、
労働者と資本家がヒエラルキーしていると青白い額に。
三菱重工爆破では、「米帝国主義」であり「アイヌ非差別」「朝鮮侵略戦争」など、
イデオロギー芬芬たるものだった。
大量生産、大量消費の時代に突入する。
消費が、神のやうに立ち上がって来る。
市民であり、選挙民であり、納税者であり、労働者であり、消費者でもある。
プロレタリアートは消滅した。
消費が美徳のやうに称えられ、
人々はマネーの前に帰伏する。
1971ニクソンショックは金と云ふ地べたから、マネーの拘束を解き放った。
マネー自身が商品になってゆくのだ。
1985「豊田商事事件」が起こる。
イデオロギーや伝統や、習俗、祭りに関する、
大きな物語がどんどん失われていって、
消費が神のやうに立ち上がって来て、
人々はその周りで根拠なく右往左往する。
時間と地域、家族が分断されていって、
コンビニが煌々と24時間、夜をも照らす。
1984「ネバーエンディング・ストーリー」の主人公の男の子は、
ファルコンと云ふ白い竜の背中に乗って、
世界に蔓延する「無」を退治しに行く。
かつてマルクスでは「疎外」は一つの重要なテーマだったが、
ここで語られるのはもっとつるりとしたもの、
「無関心」、あるいは新たなる「他」のことである。
都市の片隅で、ひそかに猟奇が蓄えられていったのではないか。
1989宮﨑勤幼女連続殺人事件。
だか、一方では人々はバブルに乗ってユーフォリア。
昂揚はヘミングウェイの「デ・ナダ」を打ち消す。
三菱爆破事件までは角棒、爆弾や銃器などによるものだった。
ところが、すでにオウムは目に見えない。
無色、無味、無臭になる。
「論理的」であることが取り払われた。
「論理」を離れてしまっているならそれはもう猟奇的に近い。
猟奇は倫理ともかけ離れる。
がんは物理的だ。
論理的でもあり、それは完全に自己の一部に違いない。
一方、鬱、は心の病だ。
がんは排除するのにやぶさかではないが、
鬱は、遺伝的である以外はどのやうにしたらいいのか。
戦争への道は社会全体の共同幻想のたまものでもある。
自明の理だが、社会全体を一挙に排除するわけにはいかない。
そして、社会(行政)は
貧困、無知、衛生・健康なともろもろの基本的人権に対して責任を負う。
オウムは、
三菱重工爆破事件とは完璧に異にする。
みんな同じおかあさんから生まれてきたものには違いないのに───
1995,3/20オウムサリン事件。
1997「酒鬼薔薇聖斗」事件
が起こる。