「亭主の好きな赤烏帽子」


「亭主の好きな赤烏帽子」

登ったり下りたり

登ったり、下りたり

ジグザグ、ジグザグ

横横斜め、ヨコヨコナナメ

はあはあ、ぜえぜえ、はあはあ、ぜえぜえ

そのやうにして嶺に出る

いつも頂上なんてものは不意にポンと思いがけなくやって来るものだ


山では黙って歩く

たいていは喋る言葉は独り言ばかりだ

オー、とか、ありゃりゃ、とか

頭の中か、せいぜい口の中だ

汗だくになって行き交う人の誰もいない山稜で、

登るとなれば

いつの間にか自分の登山靴の爪先を見るばかりになる


「亭主の好きな赤烏帽子」

■鳴沢岳を下りはじめ、赤沢岳に向かう。

この二つのお山の間の下を、例の「黒部の太陽」のトンネルが貫いてゐる。

新越から鳴沢を越へて赤沢岳を眼の前に見上げる

左崖沢下に扇沢の駐車場が見え

右、はるか立山の大なだり下方に黒部平の大観峰が霞む

ちゃうどこの真下に黒部のトンネルが貫き

わたしはその人類の偉大といふものに驚き

その真上の稜線で

飛び上がっては足を踏み

飛び上がっては、足を踏み鳴らした


「亭主の好きな赤烏帽子」 ■■黒部平がはるか下にみえる。

 

曰く、山には不思議がある

曰く、山には不可思議がある

神は何を以ってこのやうな造形を為し得たのか

おそらくは、その造形楽しぶ

故にわたしも宙天の昼にかかる頃

一つの峰に出て

この感奮をなにものかにしやうと全裸になって

青空に立ちあがる


「亭主の好きな赤烏帽子」

■汗臭いものは全部、礫の上に干した。

蟻ばかりかこんなところにも虫たちは旺盛だ。


眼前にあるのは紛れもない立山と、あの劍だ

眼に見えない波動が全身を包み

秋天の蒼さの中に、屹立する巨峰に

しばし、茫然とする

四囲、四壁をほしいまゝに

プルを抜き、一人山稜に乾杯する

おにぎりを頬張り

一人、昼天の峰の至福を滋味する

おりからしきりと脛に這いあがる蟻たちがいて

わたしは一つを摘まみ

風の中に逃がした

はるか崖下の方へ

風に光りの糸を曳き

ふわーっと流れ落ちて行った


「亭主の好きな赤烏帽子」

稜線の径は長く長く続くのだ

一人をつぶやき、ひとりを思惟し、

一人立ち止まる

やがてやうやくスバリに出れば

眼下にダム湖が見下ろせる

白く波を曳く観覧船の二つ

すぐに崖下から息を切らせて登って来る人のゐて

挨拶を交わせば汗びっしょりに満面の笑みで

その背中の向かうに針の木が悠然と聳え立った


「亭主の好きな赤烏帽子」 ■■豪快な針の木岳。スバリ岳の頂上近くから。


佐々サラサラ、

佐々さらさら

あゝ、佐々成政のあの雪に難儀なさらさ越へ

針ノ木峠も見える


「亭主の好きな赤烏帽子」

■針の木鞍部。針の木小屋がある。
「亭主の好きな赤烏帽子」
■針の木岳を下って、その向こうにはこれまた大きな蓮華岳が横たわる。

倉石智證